礼拝説教 2007年9月9日

高齢信徒祝福式
2007年9月9日 「私たちを担い、背負い、救い出す神」
イザヤ書 46:1~4
古屋 治雄 牧師
 今朝は私たちの教会の年配の皆様をご招待して、礼拝に共にあずかっております。その私たちに、特に年長の皆様に、神様は特別な御言葉をプレゼントしてくださっています。イザヤ書46章「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
 ここで、あなたたちという呼びかけがなされています。具体的には旧約時代、紀元前500年代の聖書の人々ですが、この人々はこの時自分たちの土地にいません。バビロンに連れて行かれてもう50年も経ち抑留生活を余儀なくされているのです。約束の地から遠く離れたこの地で生涯を閉じた人も大勢いたと思います。また、連れてこられたこの土地で終わるかもしれないと思っている老いた人々も大勢いたでしょう。これらの人々は神様を信頼して生きるという、その一番神の民にとって大事な基盤を自ら壊してしまい、自分たちでは再建する力は望むべくもありませんでした。そのようなただ中でこの46章の御言葉を聞いているのです。
 私たちの生活の基盤、それは実際生活であれ、精神的なことであれ、私たちはそれぞれの基盤を与えられています。私たちは神様によって人生が与えられ、家庭が与えられ、仕事が与えられ、日常の生活が与えられています。そういう基盤が時にぐらぐらと揺れ、時に倒壊してしまう、そのようなことが起こります。
 年を重ねることによって、生活の基盤が、今までのように立ちゆかないで、どうしたらいいのだろうか、と不安に陥ることがあります。想定外の事が発生し狼狽することも時に私たちに起こります。そして具体的な生活にいろいろな軋みが生じます。私たちの最も大切な基盤である神様との関係もそのような時、神様は私たちに平安を賜る方ではなかったのか、私たちに平安を約束してくださった神ではないのか、それなのにどうしてだろうとの思いが湧いてくるのです。
 イザヤ書46章の前半に、偶像の重みに耐えられないで、しまいには倒れてしまう様子が語られています。これはただ単に具体的な偶像のことに終わりません。実はそれらは、私たちが大事に担っている価値観、生活する上で必要な大事なもの、これがないと困ると思っている大切なものと見ることもできるのです。健康であれ、経済的なことであれ、家族のつながりであれ、住む家のことであれ、何でもないときには問題ないのですが、やがて先行き不安に襲われて、これがずしりずしりと肩にかかってくる。「その重荷を救い出すことができず、彼ら自身も捕らわれて行く。」これこそ基盤だと思っていたそのものが、私たちを縛りやがては押し潰す力になっていくのです。
 そのようなただ中に「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に」と神様が一連の約束を宣言してくださっています。そして、その一番の根拠として4節後半に「わたしはあなたたちを造った。」この言葉があります。造り主なる神様。この創造信仰は決して新しい言葉ではありません。よく知っている言葉です。あなたの若いときに造り主を覚えなさい、という御言葉を私たちは知っています。もちろんこのように若い人もこの御言葉を聴かなければなりません。しかし、今日は高齢信徒祝福の礼拝の中で年配の皆さんに、神様が造り主でいらっしゃるということが、決定的な支え、慰めとして私たちに呼びかけられているのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。」
 年寄りに創造の力が本当に注がれているのだろうか。若いときならともかく、神様の創造のお力がこのわたしに注がれているだろうか。正直疑問に思う人もいるかもしれません。私たちの神様は盛んなる所に、上り詰めていくとき、創造の力を注いでくださるだけでなく、創造の神様は、老いを経験するものとして、私たちを造っておられるのです。神様が私たちを造ってくださったということは、老いを経験することが必要な人間として、造っておられるのです。そのように受け止めるべきです。
 老年時代は付け足しではありません。問題ばかりのあまり歓迎できない人生の後半部分でもない。老いをしっかりと経験し、また老いることを自覚し、本人もそうですが、周囲もそのことを受けとめ合っていくのです。十戒の第五戒、「あなたの父母を敬いなさい」も老いの現実が背景にあります。その中で私たちは神様の救いの歴史を担い、神さまが私たちの救いを完成してくださることを信じて希望をもつのです。「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る」ことができるのです。