礼拝説教 2008年2月24日

2008年2月24日 「主イエスに香油を注ぐ」
雅歌 4:12~15
マルコによる福音書 14:3~9
矢部 節 副牧師
 今日はひとりの女性の行ったことを覚えつつ、主の福音を聞きたいと思います。福音というのはよい知らせという意味です。喜び伝えるべき事柄です。しかし、その事柄というのは、私たちの一般常識とはおおよそ異なることでもあります。
 きょうは受難節第3主日です。受難節、それは主イエス・キリストの御苦しみを覚える期間です。主が苦しまれる。そして十字架で殺されます。人の死をよい知らせというのは、よほど憎んでいる人が死んだのでもない限り、いや、憎んでいる人であっても死を喜ぶなどというのは、とてもはばかられるとの思いがあると思います。私たちが、この主の日、この日に神様を礼拝するために会堂に集まってまいりました。それは神様を賛美すると共に、喜びの知らせを聞こうと集まってきているのです。
 聖書の言葉、御言葉はたしかに慰めに満ちた言葉、あるいは癒しの言葉、あるいは励ましてくれる言葉であります。もちろん時には耳に痛い言葉もあります。しかし、そういった私たちを叱る言葉であっても、そういった言葉を通して私たちを導き、励まし、支える言葉でもあります。
 神の裁きを語る言葉、もあります。そういった言葉でも、一方では悔い改めを求め、主に立ち返るように、と呼びかける、その呼びかけと共に、そこには救いへの招きということとも対となっています。慰めや癒し、あるいは励ましてくれる言葉、これをよい知らせというのならわかります。しかし、今日の主イエス・キリストの言葉では、埋葬の準備といわれています。
 「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 ここで「福音が宣べ伝えられる所では」と「 福音」といっています。そしてこの福音といっていることが、今日の個所で、主イエス・キリストの言葉で言えば「埋葬の準備」なのです。
 埋葬の準備として香油を注がれる話が、本日の福音として宣べ伝えられている。もちろん埋葬の準備だけでは福音とはまだいえないかもしれないでしょう。もちろん、一般常識でいえばむしろ埋葬の準備などという死にまつわるようなことを口にするというのは、それこそ縁起でもない、そう言われることでしょう。
 ですから、キリストの死というのを語る教会というのは、おかしな人の集まりだ。そこまで、あえて口に出しては言わないにしても、そういう風に思われているのではないかと思います。キリストの死が福音となる。それは、まさに日曜日の朝、礼拝に集まってくる理由でもあります。それはキリストの復活があるからです。
 私たちが御言葉として、繰り返し聞いてきたこと、福音として聞いてきたことというのは、主イエス・キリストが十字架で死んでくださったこと、それは私たちの罪の身代わりであるということでした。しかし、このことは実は主イエスと一緒にいた人々、あの身近にいた弟子たちでさえも、実はよくわかっていなかったことです。
 主イエス・キリストが十字架と復活について、今日のマルコの個所に至るまでにも、すでに3回の予告が出てきます。3度も予告していながら、実は弟子たちはぜんぜん理解できていないのです。今日の主イエス・キリストの言葉にしても、恐らくそこに居合わせた人たちにとっては、謎の言葉と響いたかもしれません。
 しかし、そのような言葉であっても、私たちは今日の御言葉を福音、つまりよい知らせとして聞き取りたいのです。
 「はっきり言っておく。」そう主は言われます。この言い方というのは、主イエス独特の言い方といわれています。「はっきり」と訳されているのは、ここではもともとの言葉では「アーメン」という言葉です。「然り」あるいは「その通りである」、あるいは「その通りでありますように」という風に、そういう願いを込めて、私たちは祈りの後に「アーメン」と唱えます。
 しかし主イエスは大切なことを語ろうとするときに、まるでここを注意してください、と注意を喚起するように「アーメン。 わたしはあなたたちに言うのだ」と、そう言ってから話し始められます。「アーメン。わたしはあなたたちに言う。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 福音と共に語り伝えられることがある。それがこの人のしたことだ、というのです。この人、というのは、きょう、ここに出てくる女性、主イエス・キリストにナルドの香油を注いだ、その女性のことです。
 この人のしたことというのは、ナルドの香油を注ぐということです。今日はこのことについて、御言葉に聞きたいのです。
 このナルドの香油を注いだことというのを、主イエスは「わたしに良いことをしてくれたのだ。」と言われています。このよいこと、少しあとのところでもよいことという言葉が出てくるんですけれども、こちらの方の、「したいときによい事をしてやれる」というときの「よい」は、たしかに「よい」という言葉ですけれども、「良いことをしてくれた」というところの方は、むしろ、美しいこと、麗しいこと、すばらしいこと、と訳してもよい言葉です。ですから、美しい行いをした、そう言えるところです。この女性の行った行いは、とても美しい。そう主は言われるのです。きょうは、この行いの美しさに学びたいと思うのです。
 きょうの出来事のすぐ前のところに、過越祭と除酵祭の2日前といわれていますから、これは水曜日の出来事になると思います。つまり2日後が金曜日。主イエス・キリストが十字架につけられる日です。そして、この直前の記事では、実は主イエス・キリストを殺そうとしている、そういう計略を話しています。そういう計画をしていながらも、祭の間はやめておこう、とも話し合っています。つまり、多くの人たちがエルサレムに集まってきているときに、主イエス・キリストを殺すと大騒動になるだろう。そうなるとちょっと面倒だ。実際、主イエス・キリストがエルサレムに入ってくるときに民衆は喜んで迎えています。民衆を敵に回してしまうと少しやっかいだな、と、そういう思いもあったでしょう。
 ですから、祭が終わってから、と計画していたのです。しかし事態は急展開します。今日の出来事のすぐ直後の記事には、あのイスカリオテのユダが裏切ったことが伝えられています。祭司長や律法学者たちは祭のあとと考えていたけれども、主イエス・キリスト御自身は、この祭のときに御自身の死を覚悟されているのです。「埋葬の準備」という言葉の重みにそのことが現れているでしょう。
 そしてこの主イエス・キリストは、自分のこの最期のときをベタニアの重い皮膚病の人シモンの家で過ごしておられました。重い皮膚病の人シモン、もちろん、重い皮膚病だった、もうすでに回復していると思われます。重い、かつて重い皮膚病だったシモンの家です。
 ただ重い皮膚病にかかる、ということは、これは他の人々から隔離されていたわけですから、家にいるということは、恐らくもうすでに主イエス・キリストによってでしょう、癒されて、社会復帰して家に戻っている。そういう状況でしょうけれども、すでに回復しているとはいっても、恐らく冷たい視線にされされていたのではないかと思います。
 というのも、当時の考え方というのは、病気というのはその人の罪が原因である、そのように考えられていましたから、癒されたとはいえ、かつて重い皮膚病であったシモンというのは罪人という目で見られていたのではないかと思います。
 しかし、主イエス・キリストは、そういうシモンの元に身を寄せるのです。しかも自分の最後のいちばん大切なとき、そのシモンの家に主イエス・キリストがいらっしゃる。そして、その主イエス・キリストが食事をしているときに、今日の出来事が起こります。
 「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」 非常に唐突な出来事です。食事中にひとりの女性がやってきて、石膏の壷を壊し、香油を主イエス・キリストに注ぐ。この状況を想像してみるだけでも、唐突というよりはむしろ異様といってもいいような状況ではないかと思います。
 おそらく周りにいた人たちというのは、なんだろう、なんだ、というそういう思いであったであろうと思います。そして、あっけに取られているうちに、事柄をよく整理していくと怒りが込み上げてくる。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。」無駄づかいする、と訳されていますのは、だめにする、という、そういうニュアンスのある言葉です。台無しにしてしまう。おそらく非常に高価な香油は香りがいいものでしょうけれども、一気に注ぎ出してしまったのでは、かえって強烈な匂いがしてしまう。香油の特徴もだめにしてしまう。もちろん高価なものを注ぎ出してしまうことは、それも無駄づかいと感じたでしょう。
 しかも、この香油は「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 と、そのように言って居合わせた人たち、「そこにいた何人かの人たち」が、この女性を厳しくとがめます。
 たしかにこの事柄というのは、とても異様です。しかし異様なだけでなく、そこで注がれた香油というのが、すごい香りがしたんでしょうけれども、これはナルドの香油だった。つまり特別な品だった。とんでもないことをしたものだ。そういう風に周りの人たちが思ったに違いないのです。
 300デナリオン以上。1デナリオンというのは、労働者の1日分の賃金です。ですから、主の日、日曜日をのぞいても年間300日以上働けますから、300デナリオン以上ということは、ほぼ1年分の給料ということになります。その1年分の給料を一気に注ぎ出してしまう。なんてことをするんだろう。事態がわかるにつれて、それこそあぜんとしてしまったことでしょう。
 無駄づかいだ、300デナリオン以上で売れるのに。主イエス・キリストは、あれほど愛の業を行いなさい、そのように愛について語られてきた。貧しい人たちのために施しをしなさいとも言ってきた。なのになぜなのか?なぜ?という問いには、この女性は何も答えていません。
 しかし、それに代わって主イエス・キリストが言われます。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。」
 貧しい人々は、いつもあなた方と一緒にいるから、したい時によいことをしてやれる。貧しい人々によいことをすることは、主イエス・キリストもつねづね勧められてきたことです。
 「しかし」なのです。「わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことを」してくれたのだ。つまり、わたしによいことをしてくれた、と言います。だから、どうして困らせるようなことを言うのか。「するままにさせておきなさい。」こう言われます。
 「するままにさせておきなさい。」この言葉を聞いて、いくつか思い出される場面があります。
 ひとつは、主イエス・キリストに触れてもらおうとして、人々が子どもを連れてきたときのことです。子どもを親が連れてくる。すると弟子たちが叱ります。それをみて主イエス・キリストがいきどおって弟子たちに言うわけです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」 主イエス・キリストのもとに子供たちがくる。やってくるままにさせておけ。邪魔してはならない。来るままにさせておきなさい。そのように言われたことです。
 あるいは、他の場面も思い出されるでしょう。先週、礼拝ののちに婦人会の総会が行われました。そこでも、総会の前に短く御言葉に聞きましたけれども、そこではルカの伝えるマルタとマリアの話に学びました。
 マルタとマリアというと、実は今日の個所ですけれども、これとよく似た、というか、同じことが、他の福音書にもあって、マタイでもほぼ同じ言葉で記されていますけれども、ヨハネの方では少し状況が違っています。そこでは、この香油を注いだ女性というのは、実はマリアだった。つまりマルタ、ラザロのいる家での出来事。で、この香油を注いだのはマリアだった。そう伝えているわけですけれども、福音書としましては、先週読んだ記事がルカですし、今日のこれはマルコ、と、それぞれに福音書が異なっているわけですけれども、しかしヨハネがこの出来事をマリアのことである、そう伝えているのには何か深い意味があるかもしれません。
 ルカの伝える方のマルタとマリアの話ですけれども、主イエス・キリストを迎えたこの姉妹、マルタの方はいろいろのもてなしのために、せわしく立ち働いていたと言われています。しかし一方ではマリアは主イエス・キリストの足元に座って、その話に聞き入っています。それを見てマルタが言うんです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 しかし、それに対する主イエス・キリストの答えというのは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 先週話したのは、ここで言われているのは二者択一にポイントがあるのではないということです。マルタがもし純粋な思いで奉仕をしつづけているのであればよいのですけれども、そこで思い悩み、心を乱している。主イエス・キリストはそのことを指摘されているのです。
 奉仕を否定をしてはしていません。しかし「思い乱れている。」そのことを主イエス・キリストはおっしゃるのです。思い乱れるのではなくて、マリアのようにここにきて、いっしょに私の話を聞いたらどうかね、という風に招いておられるのです。
 そして「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 そう言われます。こう言った話を連想したというのは、いずれの話も、実はこれは主イエス・キリストに向かっていく行為をさえぎろうとすることに対しては、否、と主イエス・キリストが言われる、ということです。他のことを否定しているわけではないのです。
 今日のマルコの個所でも、主イエス・キリストに香油を注ごうとする、その行為について言っている。あるいは、主イエス・キリストに触れてもらおうと近づいてくる、その子どもたちの行為について言っている。あるいは、主イエス・キリストの御言葉にひたすら耳を傾けている。主イエス・キリストに心を向けていく、思いを向けていく、近づいていく、そういう主イエス・キリストへむかっていく。神様への方向、そのことを邪魔してはいけない。そう言われているのです。
 ですからここでも貧しい人々に施しをするのはたしかに大切なことなのです。しかし、主イエス・キリストに向かう思いを否定してはならない。そう、主は言われているのです。
 この女性に憤慨した人々が、もし300デナリオン持っていたとしたら、本当に貧しい人々に施しをしたかどうか、あるいは、施しを実際にしたとしても、主イエス・キリストがたとえば山上の説教で“偽善者”と指摘するように、人に見られるためでしかなかったりするのではないか。そのように思われるのです。
 我々というのは、主から目を離してしまうと、すぐ他人の目を気にしてしまったり、あるいは自分を誇ろうという思いにとらわれてしまうのです。ここでは、主イエス・キリストは、この女性の主イエス・キリストへの思い、そのことをよいこと、美しい行いであると誉めておられるのです。
 そして主は「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」そう言われました。この女性がなぜ主イエスに香油を注いだのか。この女性の言葉はどこにもかかれていません。
 ある人は、図らずも埋葬の準備となったのだ、そう言います。香油を注ぐというのは、大切な人をもてなす。そういう行為である。ただ、その行為、主イエス・キリストに行った行為が、図らずも埋葬の準備になってしまったのだ。
 いや、またある人は、この女性というのは、実は主イエス・キリストが殺されるのを知っていたのではないか、そう考えています。これだけ高価な物を持っているのだから、それなりの身分の人であったであろうし、そうであるとすれば、おそらく祭司長たちや律法学者たちのそういう計画をも知っていたのではないか、そういう推測をする人もいます。
 あるいは、また別の推測としましては、まさに、この女性というのは主イエス・キリストと非常に親しい者であった。主イエス・キリストが御自身のことを繰り返し予告されているわけですけれども、そのことをしっかり心にとめていたのではないか。そう考えています。
 弟子たちが主イエス・キリストが予告されているときに、まさか私たちのメシア、救い主である、栄光の主が殺されるなどとんでもない。実際にペテロは、そう言って「サタン、引き下がれ。」とまで言われたわけでありますけれども、思い思いに勝手なメシア像を描いている。そういったときに、この女性は主イエス・キリストの言葉を深く心にとめていて、いよいよ主の死が迫っている、というときに、思い余って、この異様な行為に出たのではないか。
 もちろん女性の思いについてはとこにも書いてありませんけれども、主イエス・キリスト御自身は、このことを埋葬の準備と位置付けていたことは、はじめにもふれた通りです。ただ、油を注ぐということは、またもうひとつ大切な意味もこめられていたのではないかと思います。
 いま弟子たちが勝手なメシア像を描いていたといいましたけれども、ヘブライ語のメシア、救い主は、ギリシア語ではキリストですけれども、油を注がれた者という意味であることは、お聞きになったことのある人も多いと思います。聖書が伝えることは、祭司や預言者、あるいは王を任命するときに油を注いだということです。
 そのことを考え合わせると、この油を注ぐという行いは、主イエス・キリストこそが本当の王であり、本当の祭司であり、本当の預言者であることを示した。主イエス・キリストこそが、主こそがメシアであり、キリストであることを、この女性は示してくださったのだ。そう理解できるのです。
 この女性が、主イエスこそメシアである、と図らずも示したと考えるのです。埋葬の準備であると共に、メシアの任命でもあった。
 この女性の思いがどこにあったのか、実際には書かれていませんけれども、しかしはっきり言えることがあります。それは主イエスへと向かっていた。主イエスへと心が向いていた。思いが向かっていたということです。香油を注ぐ。油というものが意味するもの。これは聖書の中でもいろんな意味で用いられていますし、実際の用い方も多種多様でありました。
 またそれは現在私たちが油をどう使うか、ということにもつながっていることですけれども、恐らく私たちが用いる以上に、もっと大切なものであったに違いないのです。料理にはもちろん用いたことですし、燃料としても用いられましたし、また医療においても医薬品としてというか、身体に塗ったりもしました。さらに儀式においても、油というのが用いられました。
 ただ一般に用いられていたのは、おそらくオリーブ油であっただろう、と思います。オリーブオイルです。しかし、ここで用いられたのはナルドの香油である。このことには注目していいのではないかと思います。
 主イエスは「この人はできるかぎりのことをした。」そう言われました。「できる限り」 この訳は、実は意訳でして、持っているものを行った、という、そういう表現なのですけれども、しかし、意訳ではありますけれども、ニュアンスをよく伝えているのではないかと思います。「純粋で非常に高価な」 そうマルコが説明していますように、そしてまた300デナリオン以上といわれていますように、非常に高価なものであって、この女性にとっては、おそらく自分の持ち物の中でも最高のものであったに違いないのです。
 ある人はこの香油のことを、おそらく嫁入り道具として、コツコツ貯めてきたお金で手に入れたのではないか。そう推測しています。いまでいえば、高価な香水にでもあたるかもしれません。高価であるというのは、わざわざナルドといわれているわけでありますけれども、語源は、どうもさかのぼっていくとサンスクリットであったみたいで、実はこれは輸入品なんですね。ナルドの香油というのが北インド産の植物から取られるものと言われています。ですから船で運ばれてきて、おそらくパレスチナだと、港があるタルソスあたりで手に入れることができる。そういうものであったようです。それがどのような香りがするのか、私は知りませんけれども、素晴らしい香りがしたに違いないのです。
 ユダヤでの伝説には、実はアダムが楽園を追放されるときに持ち出したもの、それがナルドであるといわれています。つまり、ナルドの香油にはパラダイスの香りがするのです。
 きょう、旧約聖書の御言葉として雅歌の言葉を聞きました。この雅歌というのは聖書の中にある愛の歌です。そして、今日の個所にナルドという言葉が2回も出てきます。「わたしの妹、花嫁は、閉ざされた園。閉ざされた園、封じられた泉。」これは、若者が恋人をたとえて呼びかけている言葉です。
 「ほとりには、みごとな実を結ぶざくろの森/ナルドやコフェルの花房 ナルドやサフラン、菖蒲やシナモン/乳香の木、ミルラやアロエ/さまざまな、すばらしい香り草。園の泉は命の水を汲むところ/レバノンの山から流れて来る水を。」ここでは恋人を閉ざされた園にたとえています。園、というのは、これは楽園ですね。パラダイス、天の国、神の国です。その神様の国にナルドが生えています。他にもすばらしい香りが漂っている、香り立っている。
 この女性が主イエス・キリストにとびきりの香油を注いだということは、もちろん主イエス・キリスト御自身がいわれるように、埋葬の準備でもあったでしょうし、また神学的にはメシアの戴冠であるとも解釈できるでしょうけれども、何よりもここで言われているのは、この女性が主イエス・キリストを愛していた、ということです。
 彼女は主イエスこそが命の水の源である。この園の泉であることを知っていたのでしょう。雅歌では、若者が女性をたとえているわけでありますけれども、ここでは女性の方が、むしろ主のことを園として慕い求めていた。そのように考えられます。
 この香油というのは聖書の中で何回も出てきます。私たちに親しまれているのであれば、あの詩編の23篇でも「わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」 こういう言葉があるように、豊かにあふれ出る、そういう充実のあらわれでもあります。
 またイザヤ書の言葉の中には「嘆きに代えて喜びの香油」 という表現が出てきます。いま、この受難節、主イエス・キリストの御苦しみを覚える40日というのは、実はこの主の日である日曜日、復活を記念するこの日曜日を除いての40日です。灰の水曜日にさかのぼっていくと、実は、日曜日を含めると46日さかのぼることになるわけですけれども、主の日を除くのです。
 御苦しみは、もちろん私たちの罪のためであり、その罪の大きさを嘆きつつ、しかしその罪というのが、主イエス・キリストの十字架によって赦されている。ですからイザヤの言葉でいえば、まさにその嘆きに代えて、喜びの香油が注がれているのです。
 そして、その香油というのは、まさに私たちに神の国、パラダイスの香りを届けてくださるのです。
 その香りというのは、主イエス・キリストから来ます。あの埋葬の油が、主イエス・キリストの復活によって喜びの香油、パラダイスの香りを運ぶ、そういう香油へと変えられていくのです。
 この女性が主イエス・キリストに香油を注いだことというのは、とても幸いなことです。香油を注ぐことができた、ということがです。主イエス・キリストというのは、いつもいっしょにいるわけではない。そう言われました。実際に、このあと主イエス・キリストは十字架に向かわれます。もちろん死んで蘇られます。しかし40日、弟子たちと共にいらっしゃったあとに、また天に昇られました。主イエス・キリストは、いま天におられます。ですから、身体としては主イエス・キリストというのは、いまここにはいないのです。いつもいっしょにいるわけではない。まさに、主イエス・キリストは身体としては、いまここにはいません。しかし、聖霊として、ここに働いておられます。
 パウロの言葉、これは第2コリントですけれども、それにこういう言葉が出てきます。これも香油に関わることですけれども「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。」 私たちにキリストと結びつけるために、神様が油を注いでくださった。そういってます。「わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」私たちに油を注がれ、聖霊を与えてくださっている。神様が聖霊を送ってくださっているのです。その聖霊を与えるということを、油を注ぐとも言い換えているのです。
 主イエス・キリストはいわれます。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。」 この私たちも聖霊に導かれて、よいことをすることができます。私たちにも主イエス・キリストに従って、愛の業を行うことができるのです。なぜならば、主イエス・キリスト御自身がその愛の力の源だからです。そして、その愛の源として、まさに園の泉として、私たちに香油を注いでくださる。聖霊を与えてくださっています。私たちに豊かに油を注いでくださっている。
 ですから、私たちが主イエス・キリストに心を向けている限り、主からの愛の香りが注がれる。そして主から与えられる、その愛の香りに生きることができるのです。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」ひとりの女性の主イエスへの、あの一筋の思い、それが福音と共に語り伝えられる。福音に生きるために、この女性の姿が語り伝えられる。まさに、主イエス・キリストを愛するとき、私たちはその主の愛に生きる者とされるのです。