礼拝説教 2008年2月3日

2008年2月3日 「悔い改めよ、天の国は近づいた。」
アモス書 5:14~15
マタイによる福音書 3:1~12
古屋 治雄 牧師
 今朝より新たにマタイの福音書の御言葉を、この礼拝のときにともどもに神様からの御言葉として聞きたいと願っております。
 クリスマスのときにマタイの福音書の1章2章の御言葉、いろいろな形で触れることができました。きょうのこの3章からは、クリスマスのことは終わりまして、イエス様が、他の福音書を見ますとおよそ30歳になられたと伝えられておりますが、そのようなときが経過をして神様の御子として救い主としていよいよお働きをはじめられたことが、この3章から伝えられています。
 しかし、イエス様がその働きをお始めになった、もう少し丁寧に申しますと、その働きが始められる前に、ひとりの人が登場しています。そして、4つの福音書が共通して、そのことを漏らさないで飛ばさないで伝えているのです。
 それはバプテスマのヨハネという人の登場であります。このヨハネという人は、少し変わった人でありまして、4節を見ますと「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」。さらに1節のところをみますと、その働きの場所が荒れ野であった、というのです。
 こういうところをみますと、聖書の人々の中にも、普通の生活ではなくて、ときに、修行僧のように普段の生活を離れて、修練のときを持つ、瞑想のときや修業のときを持つ、そういうことが聖書の人々の中にも、ときにありました。そういう伝統をヨハネが受けている、とみることもできます。
 そして、このヨハネの働きにイエス様が触発されて、救い主としてのお働きをお始めになった。これはとても大事なことです。クリスマスがすんで、イエス様のご決断で、そしてイエス様がご自分でお始めになった、というのではなくて、そこにヨハネの登場があるということです。
 しかも、このヨハネは、少し変わった生活をし、普通の人々が約束の地で生活を、ユダヤの地でしている、まったく違うところから当時のユダヤの人々の生活を見ていた。また、神様の救いの歴史の中で、そのことを見抜いていた、ということが言えるのです。
 日本の中にも巡礼地を巡る文化があったり、信仰があったりします。普段の生活を一時やめて、あえてそういう生活から離れて自分を再発見するとか、自分の生き方を吟味する、そういう決心をして巡礼に立つという人々もけっこうたくさんいるようであります。またキリスト教の中でも、たとえばスペインなどには巡礼地としてたいへん有名なところがあって、若い人々が大勢それぞれの生活を離れてある期間、もくもくとリュックをかついで質素な生活をして祈りをして、そして巡礼地を巡る、ということがなされているようです。
 そういう人々が、そのような決心をするときに、どういう思いを心の中に持っているのか、たいへん興味深いことであります。
 イエス様が登場した時代、みんながヨハネと同じような生活をしていたのではありません。でもこのヨハネに触発されて、同じように荒れ野にいって修行をする、普段の生活を離れる、というのではないにしても、このヨハネに、ヨハネが呼びかけていることに心を引かれて大勢の人々がヨハネに許に来たというのです。
 エルサレムとユダヤの全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネの元にきて罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 必ずしもヨハネのような行動が、いつも大勢に人に受け入れられるわけではないと思います。そんなことをしてどうなるんだ。日常の生活が忙しい。そのように冷ややかな目で見る人がいても、そう不思議ではないのです。しかし、イエス様が登場されますその前に、ヨハネが登場したときにはそうではなかったというのです。
 他の福音書をみると、もっと大勢全土からこのヨハネに所に人々が行って、罪を告白して洗礼をうけた、ということです。
 イエス様がクリスマスによって登場してくださって、いよいよ公の働きに入られる。そのようなときにユダヤ社会の中にこういう大きな動きが起こったというということです。これはたいへん不思議なことです。
 そして、そういう大きな動きの潮流そのものの中に、神様がイエス様をお遣わしくださった、ユダヤ社会の中に神様の見えない導き・お力によってこういうことが起こっていると、受けとめられるのです。
 一時的であっても、あるいは実際普段の生活を一時ストップして、修行に立つ、修練に立つ、そういう決断はたいへん大きな決断だと思いますけれども、そんなに実際巡礼に立つなどといわなくても、私たちの心の中にはときに、自分はこのままでいいんだろうか、こんな生活を続けていていいんだろうか、そのような思いが私たちの中に湧き上がるときがあると思います。
 そしてそのことを認めること自身がたいへん難しいと思います。私たちは日常の流れを持って生活をしていますから、何かふとした書物に出会うとか、テレビで誰かが言っていた言葉に、はたと、なにか、こういままで考えていなかったようなことが心をよぎるとか、そういうことは私たちの中に多々あるのです。しかしだいたいそういうことは、しっかり受け止めようというよりも、まあまあそれに深入りできないという気持ちの方が強いといわざるを得ない。ちょっとそのような自覚があっても、なになにそんなことに関わってはいられないのだ、と、そのような声がすぐ、私たちの心の中から、同じ私たちの内の心の中から湧いてくるのです。
 イエス様が登場したときに、ヨハネが登場して、そしてたいへん厳しい裁きの言葉を語った。救い主イエスさまを、私たちがいただいて、イエス様の救いに預からんとするときに、どうしても通らなければならないと、無視することのできない事柄が私たちの中にあるということを、今日の聖書の個所は教えてくれています。それは、もう少しヨハネの厳しい言葉をみてみますと「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」
 蝮の子らよ、というのは、たいへん威圧的な言葉です。神の民としての羊たちよ、とか、そういう言葉と違います。はなから、どちらかといいますと、よい事をしていない、神の裁きの対象ともされている、そういう迫力がある言葉です。
 そして、私たちの一般的な印象からいたしますと、こういう言葉はすぐ反発を催します。受け入れられない、なんでそんなこと言われなければならないのか、ここにヨハネの働きの大事な点があります。
 さきほど少し私たちの日常生活の中で、このままでいいのかな、というようなことがよぎるようなことを申しましたけれども、私たちの外側から、具体的に家庭の中でも、あるいは信頼関係のある友人からでも、お前はそんなことをしていたらダメだ、そういう一歩踏み込んだ言葉をもしも私たちが聞くとしたらどうでしょうか?
 そのままだとあなたはダメだと、そんなことをしていたらダメだと、すぐにそのことから離れないとダメだ、実際そういう声をこれまでの人生の中で誰かにおっしゃったこと、語る側でおっしゃったこと、また逆に聞く立場で誰かから言われたこと、そういう経験をお持ちの方もおられると思います。そしてその時、反発ではなくて、一歩踏み込んだ、そのような言葉にはっとさせられて自分の生き方を顧みることが私たちにも起こるのです。
 今朝の聖書の個所は、ユダヤ社会にそういう衝撃が起こったというのです。イエス様がお働きをお始めになるときに、とくに、はじめのところは、5節6節のところは、一般の人々と受けとめてよいと思います。7節ではたいへん厳しい「蝮の子らよ」「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て」ヨハネの元にこういう人々も今度は集まってきた、というんですね。
 マタイの福音書のしばらく先のところを見ると、イエス様がバプテスマのヨハネよ、女の産んだ者の中でヨハネほど偉大なものはなかった、そういう言葉が11章に出てまいります。それはイエス様が登場した時代の中でそれまでの時代を旧約聖書の御言葉が知られていた、信じられていた時代であると大きくまとめることができます。
 そして、旧約聖書の時代を私たちもときに大きく概観することがあるかと思いますが、裁きの神様が神様に従わない者を厳しく断罪し、滅ぼし裁く神様が登場している。恐ろしい神様、怖い神様、近づきがたい神様とまとめられることがあります。
 まったくそれは的外れということではないのですが、そしてイエス様はヨハネまでの時代がご自分の時代と比べると、裁きの神様、厳しい形で民に悔い改めを迫る、御言葉に従うことを求める神様、そのようにイエス様ご自身も見ておられることがあります。
 でも、旧約聖書の神様が裁きの神様、新約聖書の神様が恵みの神様、救いの神様だ、そういう大きな分け方から私たちは自由になるべきだと思います。
 そして、それがイエス様の救いに預かる大切な道筋を私たちに示してくれている、きょうの個所を通しても知らされるのです。
 ヨハネの厳しい言葉は、先ほどの個所にもまだ続きます。当時の人々は、自分たちはアブラハムの子孫だ。ですから毎日毎日の生活の中で、どういう生活をするか、というその生き方があまり問われなくて、自分たちはもう神の民とされているんだ、割礼を受けているんだ、約束の民なんだ、選ばれた民なんだ、というところに、安住して神様の恵みに答える生き方をしよう。毎日毎日そういう思いを大事にして生きよう、そういうところが欠落しかけていた。そのような中に、このヨハネが登場しているのです。
 後に今日のところでは当時の指導者がヨハネの元に大勢集まったと伝えられていますが、福音書を読み進んでいきますと、いちいちイエス様に突っかかって、批判をして、論争しているそういう指導者が大勢登場いたします。悔い改めを呼びかけ、そして、そんなことをしていたらだめだと、呼びかけてもすぐ反射的に反発心が燃えてくる人々もこのあとに登場してくるのです。
 今朝の聖書の個所は、反発ではなくて、大勢の人々が当時の指導者もヨハネの元に集まって、反発をしたというそういうことが伺えるとこは今日のところには記されていないのです。大変不思議なことですけれどもいちいち反発をしたということはでてきていないのです。ヨハネの厳しい言葉を受けとめることができたのです。
 そして、これはイエス様が私たちの救い主として、私たちに呼びかけをなしてくださる。イエス様ご自身が、あるいはイエス様が来てくださる出来事、その流れの中で、神様が私たちになしてくださっている道筋がここに示されていると、みることができるのです。
 ヨハネは旧約聖書を、旧約の時代まだまだ不完全だった。預言者も登場して、厳しい言葉を言ったけれども、そのことが貫徹されえなかった。だからもっと徹底した形で悔い改めを呼びかけなければならない。そのような徹底した預言者として登場する、そういう言い方だと正しくないと思います。
 今朝の3章の始めのところでありますが、バプテスマのヨハネが宣べ伝えた言葉が出てきています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」
 そうですね、旧約聖書の預言者は悔い改めを呼びかけている。先ほど招きの言葉のアモスもそうですが、内容的にはそういうことなのですね。しかし、この旧約の預言者たちは、天の国は近づいた、神の国は近づいた、あるいは時が満ちた。こういう言い方は言っていない。しかしヨハネは、天の国は近づいた、と言っています。そして実は、このヨハネが語った言葉は4章の方に出てきていますが、イエス様ご自身が同じように語っておられるのです。同じように。
 旧約預言者の悔い改めを徹底する言葉としてではなくて、天の国は近づいたという大きな出来事の中にあるがゆえにヨハネは厳しい裁きを語ることができた。そのように言うべきだと思います。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」これは、免れえるなんて考えてはいけない、ということが強調されています。たいへん厳しい言葉です。
 裁きの徹底といえばそうでありますけれども、しかしそれは救い主イエス様がそのことに御子としての責任を持って関わってくださる。神様の御支配が迫って、これまでの厳しい時代がそのまま続く、というのではなくして、イエス様が神様の御子として、悔い改めることのできない、あるいは、悔い改めてもまた元の木阿弥で同じようなことを繰り返して、罪の中に沈んでいる、そういう一人一人に対して、いままでとは違う解決をしてくださる時代が到来したと、ヨハネはそのことを知らされたがゆえに、神様によって最後の預言者として、救い主に神様の救いの歴史を確かにバトンタッチする、つなぐ役割として、ヨハネは自分の働きを受け止めることができました。
 ヨハネの言葉の中に、自分の洗礼とやがて救い主が到来して洗礼を施してくださる、それは決定的に違う。自分は罪を告白し、悔い改めを迫る洗礼であるけれども、これは11節になりますが「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
 神様ご自身の御霊の働きが注がれ、火というのは裁きをも意味しますけれども、断罪されて滅ぼし尽くされる日というのではなくして、この火は、聖霊の火でもあります。許された者として生きることができる、罪の中にあっても同じことの繰り返しではなくて、神様は私たちに新しい力を注いでくださって、おまえはそんな生き方をしていたらだめだ、自分自身を傷つけ、周りの人を傷つけている。
 そういうところから、まったく新しい生き方ができる。神様の御霊の注ぎを受けて、許された者として生きることができる。そのような道がここに切り開かれようとしているのです。
 裁きの神様か、救いの神様か、私たちの信仰の理解がどちらかのスイッチが入って、片方にスイッチが入ると片方のスイッチが切れてしまう。そういう理解、受け止め方から私たちは自由になって罪の力の執拗なまでに私たちを支配する、ときにそういうことをなお私たちは感ずることがないわけでもありません。私たち自身が日々の生活の中で、こんなことをしていたらダメだ、思うことさえ私たちには、なおあるのです。
 しかし、2000年前にイエス様が登場してくださって、ヨハネがその道筋をしっかり敷いてくださって、私たちはすでに救い主の聖霊と火のバプテスマに預かる。私たちはもうそれに預かっています。このような時代の中に移されていることを新たに覚えて新しい週の歩み、また新しい月の歩み、新しい年度に向けての歩みを歩んでまいりたいと思います。
 祈りでも触れましたけれども、そのことのために主は十字架に向かって一歩一歩歩みを進めていてくださいます。私たちが受けるべき裁きを主御自身が身に負って下さるために、一歩一歩その歩みを歩んでくださっております。
 悔い改めつつ、なお私たちはすでに主のとりなし、神様の恵みの許しの御支配の中におかれていることを覚えて、新たな歩みにつきたいと思います。