礼拝説教 2008年7月20日

2008年7月20日 「主の教会に注がれている愛の力」
コリントの信徒への手紙一12:12~31
古屋 治雄 牧師
 今朝は、この礼拝と午後にいたりますまでひとつの集いとして、主の教会としての交わりから生まれる働きを共に学びいと願っています。そのためには私たち自身が主イエスの力に預かることが必要かと思いますが、私たちがそれに預かるだけでなくて、この交わりの中で現すことができるようにも願っています。
 教会が高齢化しているということが、私たちの教会でも、また諸教会でも、しばしば話題になり、語られます。そしてその中で私たちが主の教会に連なっている幸いを覚え、イエス様の働きを担っていくことが求められています。
 使徒言行録のはじめのところを見ると、復活された主イエスはこれまでのようにはおられませんが、復活の主イエスに力づけられて弟子たちは大いなる励ましをいただいて、自分たちの群れがひとつとされているということを確信いたしました。そして生活上も、いろいろな必要なものを分かち合い、教会の群れにだけ一部の人々が集められているだけでなくて、社会の中で教会の群れが好意を寄せられる群れとなったことが伝えられています。
 主によって力づけられえたこの群れは、その群れの中でも、助け合いが起こり、脱落者がおらず、また周囲から自分もその群れに加わりたい、その群れの中に加えられて生きていきたい、と思う人がうまれました。初代の教会にそういう力が与えられて爆発的ともいえる教会の群れの力が発揮されました。
 地震が日本のみならず世界の各地で発生して、教会もその被害に遭って、援助献金を送付することになりました。いまでも能登地方の地震被害、あるいは、新潟地区での地震被害、この度の岩手などの地域においては教会の直接的な被害は軽微であったようであります。新潟の地震被害のときに、これは十日町という豪雪地帯の町に教会が建てられておりますが、町全体が被害に遭いました。そして被害に遭った人々が教会に一時的に避難して、地元の人たちに教会の存在があらためて良きものとして受け止められ、「教会さんにいろいろ助けてもらった」と、良い評判が広まったというのです。伝道集会をしたり、幼稚園のお母さんに対する働きかけをしたり、これまでもしてきたのでありますが、地震の被災を通して、町の人たちとさらに密接なつながりが生まれたという話をお聞きいたしました。
 私たちの教会、この福岡の地に建てられて124年を数えます。大勢の先輩方が、宣教師の皆さんを含めて教会のために働き、そして礼拝を中心にして、礼拝だけでなくて、いろいろな活動が展開されました。同じミッションの母体から、福岡女学院というキリスト教主義学校も生まれました。また、いろいろな地に新たな教会も建てられました。幼稚園も建てられました。教会の働きは、主イエスを心から賛美し、イエス様によって私たちに救いの力が与えられている。そのことを受け止めて、その喜びにともに与かる。群れの中に不自由をきたしている人がいたら、交わりの手を差し伸べて助け合う。そういう歴史がつづいて今日に至っているのです。
 聖書の言葉でありますが、ディアコニアという言葉があります。この言葉には、奉仕する、仕えあう、という意味があります。それからコイノニアという言葉があります。これは、交わり、教会のイエス様に愛され赦されている者どうしがそこに神様の御国を先取りして、お互いに無関心で生きるのではなくて、お互いに生きていることを共有し、交わりを持つ、仕えあうこと、豊かな交わりを持つこと、こういうことが主の教会の中にうまれるのです。
 もう少し教会の歴史のことを申しますと、教会の歴史が始まって、すぐに教会の母体から、いろいろなところに今日でいうと福祉的な働きが広がりました。教育的な広がり、福祉的な広がり、また時代が新しくなりますと、医療活動にキリスト教の宣教団が従事する活動にも展開をしているのです。
 イエス様の愛を受けた者は、自分だけでその愛をひとりじめして、他の人にはその力は行かなくて、私だけでそれをいただきたいという思いが取り払われて、イエス様の愛を受けると、そのことを感謝し、自分と同じような苦しみに会っている人たちが、なおその苦しみにある。そういうことが、見えてくるんです。そして、独り占めするのではなくて、自分も悲しみの中から力を与えられた。その経験を土台にして、なお苦しみの中にある人たちに、あなたにもイエス様が働いて下さっていますよ、と呼びかける働きかけに広がっていくのです。
 教会の歴史は、そのようなことが実際、世界中に広がっていった歴史ということができます。明治以降のプロテスタント教会が日本の社会の中に伝道を許されて、教会が設立され、また、さまざまな分野に、教育の分野に、医療の分野に、社会福祉の分野に、その働きが広がっていったことを私たちは胸を張って見ることができます。そして、私たちは新たにそういうイエス様の愛の力を私たちの教会が神様からしっかりいただいて、私たちの交わりの中でそれを十分に生かしあい、私たちの教会の交わりの中だけで充足するというのではなくて、教会にはいつも新しい人々が来ています。ひたすらな思いで、すがるような思いで、実は救いを求めています。そういう人たちにイエス様の愛が具体的な形を持って表されていく。届けられていく大切な役割を私たちは担っているのです。
 今日はとくに高齢化している、というところにポイントを置いての集いでありますが、高齢化の問題だけでなくて、福音の力はもっともっと広い意味で私たちに注がれていることを知らされるのです。
 今日は、これまでのマタイの福音書によります御言葉から少し離れて、パウロ書簡第1コリントの御言葉に今朝聞くことにいたしました。コリントの教会がいろいろな問題を抱えていました。かなり深刻な問題を抱えていたんです。第1コリントのはじめのところを見ると、内紛のような状態があったのですね。教会にそんなことが起こるのか、ということでありますが、起こったんです。紛争が起こりました。でもパウロは困ったものだ、といって嘆くだけではなくて、そのような大きな課題、問題を抱えているコリントの教会でありましたが、この教会に豊かな主の教会とされていることの恵みを、この手紙を通してパウロは語っているんです。
 12章の御言葉を先ほど共々に見ましたが、広い意味で12章から手紙の最後にいたるまで、その広い個所でありますが、その個所からはっきりと示されていることがあります。
 主の教会に注がれている神様の愛の力、というものをここに見ることができます。  そして、午後に発題者を3名立てていただいて、グループごとに分かれて、私たち話し合いをしようとしておりますが、それに先立ってコリントの教会だけでなくて、主の教会に一様に注がれている神様の力、愛の力、そのところを共々に見たいと思った次第です。
 12章のいちばん始めのところを見ると、パウロは霊的な賜物ということを語っています。教会がぎくしゃくしたり、いろいろな具体的な課題ということが見えてくると、それにどうしたらいいか、具体的な課題がありますので、具体的にどういう手立てを講じて私たちは、その問題を解決するか、いう風にふつう考えるかと思います。しかしパウロは、そのような中で、まず語っているのが霊的な賜物ということをパウロは語っています。このことからスタートしていることは、とても大事なことだと思います。
 霊的な賜物、というと私たちは不思議に思うのですが、具体的に不思議なことではなくて、こういう力ですとパウロは語っています。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」
 私たち、ここに集っているこの群れは、第1日曜日ですと、信仰告白をいたしますが、イエス様は救い主として私たちのために来てくださった。そのことを信仰によって告白し、あるいはイエス様は本当に救い主なのかしら、そういう関心、期待を持って集まっているのが、この私たちの群れです。いろいろな課題がそれぞれ教会に与えられていると思いますが、その課題を解決するスタートラインとして、イエス様が救い主としていてくださる。そういうことを受け止めている私たちに、何か怪しげな不思議な霊の力というのではなくして、イエス様は私の救い主となってくださっている、とそのように受け止める私たちには、すでに神様の霊の力が私たち、この私に働いているのです。そこからスタートしましょう、ということが私たちにも呼びかけられています。
 信仰告白というと、なにか私たちは難しく考えたり受け止めたりする傾向があります。でも、私たちは不思議な導きによって教会に導かれている。イエス様に関心を持っていると、そのことの中に神様の見えない導きが私たち一人一人の中に働いているんです。この働きが大事です。そしてその働きを信ずることが大事です。
 このことをまず第1に見ました上で、2番目のところに移ってまいりたいと思います。それは今朝の12節以降の御言葉になりますが、教会に招かれている私たち一人一人は、誰一人欠けてよいという人はいないということです。誰一人、もうあなたがいなかったら、その代わりがあります、そのような代わりはありえない、ということです。私たち一人一人が赤ちゃんであろうと子供であろうと青年であろうと、壮んなる者であろうと、老人であろうと。しばしばお年よりの皆さんが、皆さんの厄介になるばっかりで、何の奉仕もできなくて、とおっしゃる方の言葉を耳にします。でも、そうではないんです。あなたはいらない、という人は教会にはありえない。パウロは、そのことをここで宣言しています。
 牧師としては、しばしば戦力になる教会員がほしい、そういう気持ちが正直あります。打てば響くように何をしたらいいかとか、何を考えたらいいか、ということが、わかる教会員になっていただきたい。そういう願いがあります。正直いいまして、打っても響かないと牧師はいらいらしてきたりします。でも、そういう考えは今朝のパウロの言葉からすると軌道修正しなければならない。パウロは、一生懸命働きました。おそらくパウロも教会に結ばれているみんなが戦力になってほしい、と思っていたと思います。でも、あなたはいらない、そういう人は教会に一人もいない。これが第2番目の点です。
 3番目。あなたはいらないだけでなくて、22節「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」。24節「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」これも大変な言葉です。弱い部分が必要だとパウロは言っているのです。このことを受け止めるというのは勇気がいると思います。みんなまとまって、ひとつのことを推進したい、みんなでこういうことをしようと思っているときに、逆の流れが起こるということは大きなロスです。でも、そういうところが、必要だ、必要だといっているんです。いらないだけではなくて、必要だとパウロは言っている。そして、弱い部分をどうしたらみんなで支えていけるか、ということによって、その群れが、ひとつになるということをパウロは見ているのです。
 皆さんのご家庭でも、弱い人々を抱えていて、そのことのために時間も、労力も、また財力も費やすということも、いろんな形で起こっていると思います。私たちの社会もそうです。その社会がその群れがどういう群れか。その群れの本質が露呈するところ、それは弱いところです。
 社会で考えてみると、よく聖書にもそういうことが書いてありますけれども、女性や子どもが本当に社会の中で位置づけられているか、大事にされているか。旧約の聖書を見ますと、孤児や寡婦がちゃんとその共同体の中で受け止められて守られているか。古代社会の中で、旧約聖書の人々は、神様からそのことを大事にせよと言われてきました。これが聖書の伝統です。
 あるご家庭で、長年病気で倒れている人があって、そしてその人は自分で働くこともできません。世話になりながら、日々の生活を送っている、でもよくよく見ますと、その家庭の中でどこを中心にその家族の生活が動いているか、それはその一番助けを必要としている人たちが中心に位置づけられて一つとされて、みんなが生活している。私はそういうご家庭を何年も見てきました。お孫さんが出かける前に「おじいちゃん、行ってきます」何気ない声をかけて出て行く。帰ってくるとカバンを自分の部屋に置いて「おじいちゃん、ただいま」と帰ってくる。何気ないことですけれども、その弱い存在を通して、家族がばらばらではなくて一つとされているのです。
 教会の場合は、どうなったらよいのでしょうか、私たちの社会は、どういう社会になったらいいのか、ということが問われています。パウロはコリントの教会の人々に、弱いところが必要だ。弱いところを補い合うことによって、ここにイエス様の愛の力が現されと信じているんです。旧約聖書の中に、十戒があります。あなたの父と母を敬いなさい。十の戒めの中のひとつです。これは、多くの人々が教会学校で教える戒めだと思っています。確かにそういう面もあります。でも、いちばんの意味はそうじゃないんです。大人に対して、大人の“あなた”の父と母ですから、扶養の責任がある人々に当然なります。若いときは一生懸命働いた。家族を支えてくれた。でも、そういう時代が過ぎて、いまは世話が必要な立場になっている。そういう人々を敬いなさいというのです。敬うこと、これが十戒のあの戒めの中心的なところの意味です。イエス様が登場した時代に、ユダヤの社会に問題がありました。十戒の言葉はよく知っています。今日の私たちほどにないにいたしましても、家族がお年寄りを支えて生きるということが、ちゃんとなされていたかということがイエス様に写るんです。こういうことが起こりました。私はコルバン、コルバンというのは「これは神様の捧げ物です」、とても信仰深い、そういう表明なんですね。でも、神様への献金にするか、その財力を親の扶養のために用いるか。聖書の人々は神様優先です。コルバンです、と言ったがゆえ、でも実際はそうしないで、親の扶養の義務を回避するための方便として、そういう言葉を使っていた人がイエス様の時代、ユダヤ社会にいたんです。イエス様はそのことを見抜いておられました。そして、あながたがは敬いなさい、という大事な戒めを本当の意味で理解してない。鋭い問いかけをなさったんです。(マルコ福音書7:8以下)
 聖書の人々は年長者を尊敬するそういう伝統の中にありました。でも、いろいろ問題を抱えていました。これはどの社会でもきっと同じでしょう。そのことは大変なことです。時間も労力も財力も、家庭にあっても教会にあっても、あるいは社会にあっても、事柄は必要でしょう。でも、そのことを通して神様が私たちの群れを調和のある群れとしてくださる。一部分だけが突出して、そのことによって、傷ついたり振り落とされていくことが起こるのではなくて、それが私たちの教会生活の中にもいろんな課題をクリアする形で、受け止められていかなければなりません。パウロは問題多きコリントの教会の人々にそのことを語っています。
 さらに教会は弱き枝々が支えられるということに留まらない。それは第1コリントの13章、14章のほうにも展開していくのでありますが、教会の群れが周囲の人々から好意を寄せられるということが使徒言行録の中にもありました。それは、コリントの教会の人々にもそのことが呼びかけられているんです。
 霊的な賜物といっても、勘違いをすると、何か恍惚状態になって、普段わからないようなそういう言葉を語る、そのことがとても大事なことだ、ということではありません。神秘的な能力こそ宗教的な次元の高い能力だ、という風に受け止められた人たちがいました。これが異言を語る人々が人々が当時いたんですね。そして、そういう人々は自分たちこそいちばん信仰深い生活をしていると思っていたんです。
 でもパウロは、そのことも受け止めているんですが、一番大事なことは霊的な賜物といっても愛の言葉、わかる言葉、預言の言葉、神秘的な言葉を語るんじゃなくて、わかる言葉を神様から与えられて、教会の外側にいる人々にも、「あ、教会に来ている人々は、こういうことを大事にしているのか」「教会に来ている人は、こういうことを大事に行って生きようとしている人なのか」ということがわかるのです。
 14章の23節以下のところを、見てみたいと思います。「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」
 これは預言的な言葉を語るということを言われていますが、これは教会の群れの働きが、その内側だけで充足してしまうのではなくて、外側の人々への働きになって現れる、ということなのです。
 私たちめいめいいろいろな境遇の中にあります。いまは自分のことしか考えられない、という人もいます。確かにそうです。そのような人は、私のためにイエス様が必要な力を与えてくださっているということをしっかりと受け止めるべきでありましょう。
 でも、でもイエス様の働きは、「私」に働く。その「私」に働いたイエス様の力は、私以外の人々にも働いている。人称代名詞で申しますと、私の信仰が私たちの信仰へと変えられる。この展開がとても大事です。一生「私」止まりの信仰はありえない、と思います。
 もう少しはっきりと申しますならば、「私」のことしか考えられない信仰は問題があります。問題があります。「私たち」という信仰に、私たちが導かれないと私たちの信仰生活は豊かにされません。これは、信仰の事実です。前にも修養会をして、ともに学んだ御言葉でありますが、今日の御言葉、12章13節、「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」私たちが洗礼をさずかって、救いの中に生きる者とされた。それは、一つの身体となるために、そのように導かれた、というのです。ひとつの身体、となるために。私が信仰に導かれて洗礼を受けて、日々教会生活をしている。それは「私」の中で完結し得ない。これがイエス様の救いの真理です。イエス様の愛が注がれている力です。その愛が、私たちを変えてくれるのです。
 今日はとくに私たちの教会の交わりの中に、働く愛の力、またその働きを私たちがどうお互いに担っていけるか、教会という一つの群れで考えていますけれども、家族の中にあっても、教会の中にあっても、もう少し広く見て、私たちが生かされております、それぞれのグループ・社会のつながりの中にあって、その中で私たちは大事な役割を託されている。小さい者であっても、そのような一人一人なのです。
神様がコリントの教会にパウロを通して注いでくださったイエス様の愛の力を、私たちの教会も同じように受けているのです。その群れにすでに注がれている力を私たちはしっかりと受け止めて具体的な課題に向かう者となりたいと思います。