礼拝説教 2008年9月21日

2008年9月21日 「アブラハムの人生」
創世記25:7-10
ヘブライ人への手紙11:8-12
古屋 治雄 牧師
 敬老の日というのは、私たちの国では先週でありまして、それぞれの家庭でいろいろな形で家族の皆さんの計画があったかと思います。今日は教会版の敬老の日ということもできるかと思います。週報にもお名前を記しておりますが、私たちの教会の現住会員として連なっておられます皆さんの名前が今日、記載されております。のちほど一人一人お名前を申し上げる予定です。
 もう少し広く見ますならば、私たちの家族や、また現住会員でいらっしゃらなくても、共に教会生活を送っている方々もありますし、大勢の年長者の皆さんと私たちは共に生活をしています。
 先週の加藤常昭先生の礼拝のお話も、また月曜日の信徒大会も、高齢の皆さんと共にどう私たちは歩むことができるか、そのことに主観点が置かれて神様の御言葉に与かったものです。老いと、また死ということを貫いて、私たちは神様から希望を与えられている。聖書の御言葉の中に、そのことがはっきりとした一本の筋が通っていて、そのことが私たちにも今朝あらためて呼びかけられています。
 お一人一人、本来ならば、これまでの人生について、共に語り合うときがあればよいと思うのですが、いろいろな経験を重ねてこられたかと思います。とてもひとことでは言えない。嬉しかったこと、辛かったこと、命をおびやかされたこと、きっとそれぞれに皆さんの中にあるかと思います。
 今朝は聖書の中に登場するアブラハムのことを、聖書の御言葉から聞きたいと願っています。「アブラハムの生涯は175年であった。」世界中で一番長寿の人が、ギネスに載っている人が日本の男性で、この間もテレビに登場しておられましたけれども、175年というこの数字を、そのままいま私たちの人生に重ねるのは少し無理な面があるかと思いますが、アブラハムは神様に呼び出されたときが75歳でした。神様に呼び出される前の人生があるわけですが、神様に呼び出されて、神様の前で歩んだ歩みが、計算いたしますと100年に及ぶ。これは大変な長さということになります。
 旧約聖書は、アブラハムだけでなくて他の人もそうですけれども、私たち聖書の神様の歴史というと、何か、時には神話的な感じがしたり、時には自分の生活とはあまり結びつかない神秘的なことがいっぱい出てきて、自分の人生と重ねあわせることが難しい、と、思われることが多いと思います。けれども、アブラハムの人生は、歳のことはちょっと置いておきますと、神様と出会って新しい旅に出かけることから始まりまして波乱万丈、いろんなことが出てまいります。
 ヘブル人への手紙の御言葉を、新約聖書で私たち先に読みましたけれども、信仰によって言葉に導かれてアブラハムの生涯が語られていました。この“信仰によって”ということでくくられているわけでありますが、その中を開きますと、いろんなことがありました。ひとつひとつアブラハムが生涯を閉じる前の出来事を、創世記の今日の個所をさかのぼって細かく見ることはできませんが、信仰によって義と認められた、ということが出てまいりますが、でもほんとにいろんなことがありました。
 神様にいつも忠実であったかというと、けっしてそうではありません。
 代表的なことを二つ取り上げますと、神様は老年になったアブラハム、サラ、この老夫婦から人間的にはもうとても望むべくもないのでありますが、この夫婦から子孫が与えられる。アブラハムはそのことを待ちきれませんでした。妻、サラがこの約束を一緒に聞いて信じて歩んでいたのでありますが、妻サラの方から提案しました。古代の社会でありますから、もう無理だから神様のせっかくの約束を受けるために、仕え女によって子どもを得る、それがいい、と。これはひとつの老夫婦にとっての神様の約束をちゃんと受け継ぎ、有効にする具体的なものでありました。
 しかし神様は、それはダメだ、と。そうではない、アブラハムとサラから子孫が与えられる、と。仕え女ハガルによってイシュマエルという子どもを得ましたが、そのことから悲劇を生んでいきます。人間が神様の約束を、じーっと忍耐して受け止めることができなくて、自分の方から、こうすればきっとそれは早く実現するだろう。このこともきっと許されるだろう、という形で、神様の計画を私たちの方から迎えに行く。待ちきれないで迎えに行く。そこから予期しなかった悲劇が生まれ、その責任をも神様が取ってくださいました。
 もう一つ取り上げると、アブラハムはサラをどのくらい愛していたか。この老夫婦はどういう絆に結ばれていたか。本当に興味が湧くのでありますが、旅をしているときに、強い王様が出てきました。その王は、サラを自分のものとしたくなりました。それに気づいたアブラハムは嘘をつくんですね。そして、これは妻ではありません。妹です、と言いました。その場面の危機を、アブラハムはそのときは乗り切るわけですが、そのことが発覚して、サラを迎え入れようとした王様は、妻であることを知って驚き、自分に大きな罪を犯させようとしたのか、とアブラハムを非難しました。
 ことほど左様に、神様の約束を信じて、まっすぐ信じて私たちはいけるか、というと、いろいろなこの曲折を私たちは経験します。アブラハムだけでないと思います。そしてこれは年齢に関係ないと思います。
 神様を疑い、疑うだけでなくて、ときには、このことは許容範囲の中にあるのではないかと私たちは勝手に道筋を敷いて、そしてそのことによって誰かを傷つけ、また自分自身も神様の前に傷つく者になってしますのです。
 年配の皆さんだけでなくて、私たちめいめい自分の今までの人生の中でプラスに思えることと、プラスではなくてマイナスだと、そのことを総決算したら、私たちの今日に至るまでの人生はどういう収支になるでしょうか。これも人によって違うと思います。
 アブラハムは神様の呼び出しを受けたときに、75歳でした。何か人生に行き詰まりを感じて、何か新しいきっかけはないかと、待っていたわけではありません。不幸の中にあったとは言えないのです。聖書をみますと、かなりの財産を持っていました。でも、そのような中にひとつだけ欠けていることがありました。それは、自分の人生が神様の歴史の中に結ばれているということに気づけなかった。気づくことができなかった。別な言葉で言うならば、私たちを救いへと導いてくださり、個人個人ではなくて、この世界全体が神様の救いの歴史の中にある、そのために神様が働いていてくださり、その神様が私に出会おうとしてくださっている、ということを神様に呼び出される前にアブラハムは知りませんでした。
 自分の人生がプラスかマイナスか、双方、秤にかけるとどうか、それぞれ私たちには、それぞれの判断があるかもしれません。でも、そうではないのです。聖書の神様は、そういう、幸せだったか不幸だったか、その只中に私たちに出会ってくださるために、聖書の神様は私たち一人一人の前に立っていてくださる。イエス・キリストが私たちに呼びかけをしていてくださる。
 そうすると、この神様に出会うと、神様に出会う前に私たちがしていた収支決算がまったく違うものに見えてくる。違うものとして受け止められる。そのように言いうるかと思います。
 新潟の教会におりましたときに、一人の老人、信者の方がありました。とても静かな方で、礼拝に来ることもだんだん難しくなってきた老人であります。その方が、お会いするたびに、気になっていることがある、というんですね。よくよくお話をお聞きすると、非常に具体的な何十年も前のことを思い起こされて、ある人に自分はこういう対応をしてしまった。そのことが今も思い出され悔やまれてしようがない。私たちからすると、別にもうそんな何十年も前のことで、お聞きすると、そう深刻内容ではないのですね。そんなことも、もう忘れてしまって、差し障りないようなことでした。でも、その方にとってはどういうわけか、とっても気になって、あの人を傷つけてしまった、と言うのです。どうしてそのことが気になっておられるのか、お聞きしたときには、よくわかりませんでした。でも、その話を聞いて、そんなに古い古いことが気になるのならば、そのことを覚えて神様にお祈りしましょう、と、申し上げました。
 どうして、そんな小さなことが気になっておられるのか。そのいきさつはわかりませんけれども、自分の人生が晩年になって、神様の前に歩む者としていろいろなことを神様の前で振り返り、神様の前に赦しを求めて生きたいとの切実な思いがそこにあったことは疑い得ないことです。神様の救いの歴史の中に生かされていることを信じて生きる。私たちはその確信が与えられた時、本当に平安の中に生きることができるのです。その方も社会的にはかなり大きな責任を負ってこられた方だと思います。でも、そういうことではなくて、神様が私たちをちゃんと受け止めてくださっていることに安らぎがあることを信仰生活を通して知らされたのです。
 今日、創世記25章でみますアブラハムの生涯は、たいへん短い個所であります。「百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」 アブラハムの生涯は、神様の前に覚えられ、約束を信じた。その点だけ見ますと、たいへん模範的で非の打ちどころのない信仰者のように思うのでありますが、そうではないのです。そこに神様の赦しと導きが、召し出してくださった一人一人に注がれているのです。私たちは罪を重ねて、罪の裁きを受けて、滅んでいくのではなく、贖いと赦しの中に生かされ、そして救いの歴史を担う大事な一人とされているのです。
 アブラハムと私たちは違うと思うかもしれません。しかしそうではないのです。私たち一人一人も、かけがえのない固有の人生を与えられ、固有の歩みを与えられ、そして神様の救いの歴史の中にかけがえのない者として結ばれているのです。
 「長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」 このごとく私たちも信仰者に与えられている救いの歴史、私たちもいつか地上の歩みを閉じるときがあります。しかし、それは罪の裁きとしての死ではなくして、アブラハムのことがここに述べられているように、とくに私たちは、アブラハムが直接体験することのできなかったイエス・キリストによる決定的な贖いに与かり、神様の新しい命に生かされていることを、約束を新約聖書から、聞くことができのです。
 信仰生活を長く歩んでこられた年長の皆さん人生は、アブラハムの人生のようにその全体が神様に受け止められ、そして救いの歴史の中にしっかりと位置づけられています。
 私たちの固有名詞は、聖書に記されるということはありませんが、でも中身は一緒です。私たちの人生の中に、神様が声をかけてくださり、神様が出会うことができ、神様に従う決心をし、たとえふらついても、そのような私たちの人生を「満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と結ぶことができる者とされているのです。その到達点を、私たちはしっかりと見上げ、一緒にそのことを見上げて歩む民として、私たちの教会のこの群れが守られ強められ、脱落する人がないように私たち、交わりを厚くし、共に歩む者となってまいりたいと思います。