礼拝説教 2007年10月14日

門司教会伝道礼拝説教
2007年10月14日 「やり直すことのできる人生」
ヨハネによる福音書 3:1-15
古屋 治雄牧師
 今朝、門司教会の主の礼拝に、御言葉を取り次ぐ者として招かれ、皆さんと共に聖書の神様を賛美することができることを、感謝します。
 特に今朝は教会に初めて来られた方もおられると思います。私のおります福岡の教会でも、時々電話などの問い合わせがあって、信者ではないけれども礼拝に出でいいんですか、と聞かれることがあります。もちろんいいんですよ。聖書の神様はそういう人を大歓迎してくださっています、と答えます。
 教会の礼拝は、すでにつながっている人々に限られているのではなく、いつも新しい人々へ神様が呼びかけておられる特別な時でもあるのです。
 私たちキリスト教の教会では聖書を大事にしています。新しく教会に来た人には備え付けの聖書を渡したり讃美歌を渡して、一緒に礼拝します。少し聖書のことを知っている人は、聖書は難しい、よっぽど勉強しなければキリスト教のことは分からない。クリスチャンになることは大変なことなんだ、と思っている人が多いのではないでしょうか。たしかに聖書は分量も多いし、もともと日本とはかけ離れたところで生まれたものですし、ユダヤ、イスラエルの言葉が元であり、そこで信じられてきた宗教といえばそうなんです。
 時代的にも、新約聖書でも二千年、旧約聖書はもっと古く、三千年以上遡る内容さえあるのです。今日もこの礼拝の中でその聖書が朗読されました。考古学者ならばともかく、一般の私たちがそんなものに接して意味があるのだろうか、とさえ思ってしますのです。
 皆さんの中で日本の古典に親しんでいる人がおられるかも知れません。万葉集や古事記、日本書記といった古いものでも時代的には聖書に及びません。聖書の方がもともと比べものにならない位古いのです。そういう聖書を教会では大事にしているのです。
 それはなぜでしょうか。先ほど、私たちが毎週日曜日している礼拝の中には、神様の呼びかけがある、と申しました。そうなのです。聖書は細かくみるといろいろな内容がありますが全体的には、神様の呼びかけなのです。教会では、私たちに呼びかけてくださっている聖書のこと、また聖書の解き明かしをする説教のことを福音と言います。これは英語ではグッドニュースと言います。聖書を通して神様が私たちに、それを聞くとほんとうに喜びが沸き上がってくる、そういう良いニュースを呼びかけてくださっているのです。ニュースというとどうでしょうか。普通私たちは良いニュースもあるかも知れませんが、悪いニュース、聞いて心が暗くなるようなニュースを思い起こすことが多いのではないでしょうか。
 聖書のメッセージはそうではありません。考古学者の二千年以上古い古文書ではなく、この聖書から、今、私たちに、神様が喜びのニュースを呼びかけてくださっているのです。
 今日は新約聖書を中心にお話しします。新約聖書の中でも始めのグッドニュースとして伝えられている、その福音書のお話しです。
 聖書全体からの神様の呼びかけが、目に見えないのでもない、また、直に聞くことのできない声としてでもなく、イエス・キリストという具体的な人によって、私たちに呼びかけ、私たちに出会って下さいました。
 福音書はそのイエス様がなさったこと、イエス様がいろいろなことを話されたことが伝えられています。
 ヨハネによる福音書のこの3章の前にもすでにいくつかの出来事が起こっていました。3章ですから、まだイエス様のお働きは始まったばかりです。
 しかし、始まったばかりですが、私は人の心を惹きつけ、そしてその人に決定的な働きかけをして下さる方だと思います。イエス様は、いわば磁石のような方だといつも思うのです。磁石は鉄を引き寄せますが、イエス様は人を惹きつけるのです。福音書にはイエス様の方から声を掛けてくださった出会いもたくさんありますが、ヨハネによる福音書3章は、少し違っています。
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人の議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った、というのです。私たちはこの物語は、このニコデモという人が自分からイエス様のところに来たんだから、イエス様が惹きつけたとは言えないと思うかもしれません。しかし、この出来事を順次みていくと、やはりイエス様の「引力」が働いて、しかもイエス様がこの出会いの出来事で主導権をもってこの人を導いておられることが分かるのです。
 このニコデモは、ともかくイエス様のところに来ました。事前の約束があったとは伝えられていません。それが「夜」であったことも興味深いのですが、やって来て開口一番イエス様に言った言葉に注目しましょう。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」ラビと言うのは、先生という意味で尊敬の言葉です。どこかでイエス様がこれまで弟子たちを何人も集めたり、結婚式で水を上等な葡萄酒に変えたりしたことを直接見ていたのかもしれませんし、誰かからそういうこと聞いていたのかもしれません。だから、「イエス様、あなたはすばらしい方です」と、尊敬の気持ちでその敬意を伝えたいと思っていたのでしょう。この場合とは違って、イエス様に切実なお願いがあって、イエス様にすがりつくようにやって来た人も他の箇所には登場しますが、少なくともこの場面はそうではありません。
 つづくイエス様の言葉を見てみましょう。「イエスは答えて言われた、はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」
 私たちは毎日いろいろなことをしていますが、自分がどこにおいるのか、自分がどっちを向いているのか実は分かっていないのです。別の言葉で言うと、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、分からなくなっている。そもそも普段そういうことは考えないのです。日常生活の中で何をしていないのではない、暇がないくらいいろいろなことをしているし、考え、責任もそれなりに負って生きているのです。
 そういう私たちのところに実はイエス様が近づいて来てくださるのです。直接劇的な出会いが事前にあったのでもない。でも何だかうまく言えないけれどイエス様に会ってみたい。ニコデモの中にそんな思いが湧いてきたのでしょう。
 ニコデモは議員でした。これは当時大変な地位です。通りでもしも彼に会う人がいたら、きっと頭を下げて会釈しなければならないような、そういう人だったのです。ニコデモが夜イエス様のところに来たことをはじめに見ましたが、おそらく人目を避ける気持ちがあったからそうしたと思われます。それでもニコデモは勇気があったとみるべきです。私たちだったら、いや私だったら、少しくらい惹かれる人がいたとしても、自分の立場、社会的な立場、メンツをまず考え、会ってみたいと思ってもその気持ちを押さえ込んで、夜であってもわざわざそのような行動を敢えてとることはしないのではないか。しかしニコデモはイエス様に会いに行ったのです。
 ニコデモの立場を越えた勇気と言っていいと思いますが、そのことがここに伝えられているのではありません。イエス様の目に見えない神様の人を導く磁石のような力「引力」がニコデモに働いているのです。そして本人の心の奥にある願い、叫び、訴えかけに気づかせてくださるのです。
 ここに伝えられている2節、3節のやり取りは、冷静にみるとおかしなやり取りと言わざるをえません。ニコデモのイエス様への尊敬の気持ちの表明とイエス様の答えはきわめてちぐはぐです。もしもニコデモが「イエス様、教えてください。どうしたら神の国を見ることができるのでしょうか」と尋ねたのであればうまく噛み合っているのですが、そうではありませんでした。そもそもニコデモはこの夜、イエス様のところに何をしにきたのでしょうか。
 もう少しニコデモと当時のユダヤの人々に注目しましょう。これはニコデモ一人のことに終わらないからです。冒頭教会では聖書を大切にすることを話しましたが、当時のユダヤ社会は、私たちが想像する以上に当時の聖書を大事にしていました。それは律法と言われていて、日常生活の隅々において守るべき規則が決められていました。ニコデモの所属していたファリサイ派はその中でも特にこの律法に厳格でした。安息日を守ること、祈ること、断食すること、施しをすること等、614に亘る規定があったそうです。そしてそれを守っていれば、神様が恵みを注いでくださり、それを守れない者は神様から罰せられると信じられていたのです。きっとこのニコデモも一所懸命それを守ろうとして、ましてや指導者としてこれまで守ってきたと思います。ニコデモは彼一人ではなく、当時のユダヤで神様を信じて生きてきた人を代表しているといっていいでしょう。
 当時のユダヤの人々はこのように皆律法を守ることを中心に信仰生活を受けとめていたのです。ですから、ニコデモとは反対に、律法に忠実に生きようとしない人、いや明らかに律法に背いて生きているとしか思えない人にとっても、神様が自分たちの生き方を見ていてくださるとか、神様が自分たちに親しく声をかけてくださる方だ、とはまったく考えることができずに、神様=律法規則としか思えなかったのです。
 神様が命じておられる規則をもっともっと大切にしよう、それを守ろうと思っているニコデモのような人も、またとても神様の戒めなんか守れない、もしも神様の前に引き出されたらきっと重い罰を受けるに違いないと思っている人も、神様が良き知らせを伝えるために招いて下さり、一人一人に呼びかけてくださっているとは考えることができなかったのです。
 3節のイエス様の言葉にもう一度注目しましょう。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」イエス様は、ここに登場しているニコデモに、そしてニコデモだけでなく当時のユダヤの人々に、そして今日この御言葉を聞いている私たちに、新しく生まれるということを言われました。
 ニコデモの中にイエス様ともっと親しく話したら、自分の人生が今までの延長ではなく、新しい何かを得ることができるかもしれないという思いがはっきりあったかどうかは断言できません。先にも見たように、自分でもどう整理したらよいか分からなかったと言う方が実際の事情だったと思います。注目されることは、イエス様がそのことを先取りしておられることです。このうまく噛み合っていないように見えるやりとりは、そうではなく、イエス様の迷える人間の心をはっきり整理してくださり、道筋を明らかにしてくださる、愛する者を導く本当の教師なのです。
 私たちも何か難しい事に直面したとき、自分に自信がもてなくなったとき、人生をやり直したいと心底思うことがあります。今現にあるところの自分から抜け出したい。明日目が覚めて起きたら今の自分ではなく、違う自分になっていたいと思ったことは皆さんはありませんか?子ども時代にはもっとストレートに、変身願望をもち、その気になったこともあるでしょう。しかし大人となった今は…です。
 人生やり直すとか、新しく生まれるということを、私たちも考えたり、想像することがあります。何か困難に塞がれたとき、死んだつもりでやり直そうとか、生まれ変わったつもりでもう一度挑戦してみようとか、思うのです。そしてその力の源は、自分の決心覚悟の堅さであり、中には人間その気になりさえすれば新しくやれるものだと自信をもっている人がいるかもしれません。
 新しく生まれるということは、この自分がいままでのドロドロしたものを引きずらないで、まったく新しい存在になる、ということですね。覚悟のほどを示す譬えとして、叶わない願望として言うことはあるにしても、私たちがある時まったく新しい人間に変わるなんてことがあり得るのでしょうか。
 私たちの経験からすると、そんなことは起こり得ないのです。一時は思い直して一所懸命やってもうまくいかず、その反動で前よりも辛い心境に陥ることさえ時におこるのです。せっかくのイエス様の「人は、新しく生まれなければ」と仰った言葉ですけれど、私たちは積極的にまさに言葉通りに聞き、それに人生を賭けることができるのでしょうか。
 私たちを代表して再度ニコデモが返事をしました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」ニコデモはとても真面目な人だったと思います。滑稽に思えるほど言葉を律儀に受けとめているのです。そして、せっかくイエス様に会いに来て、いただいたこの大切な言葉ですけれど、彼の発想からすると、人は母の胎内に絶対に戻ることができないように、新しく生まれるなんてことは残念だけれど、これも絶対にありえない、ということになるのです。
 イエス様が仰った、新しく生まれて神の国を見る者とされるということはもう行き止まり、いやこれ以上考えてもしょうがない八方塞がりなのです。
 イエス様は後につづく所でニコデモに言われました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と。イエス様はニコデモに腹を立てておられるのでしょうか。または有りもしないことを語って、からかっておられるのでしょうか。そうではありません。ニコデモが自分でも気づけないでいる神様の前に生きる人間として根本的な問題へとちゃんと導いておられるのです。袋小路に追いやって弄んでおられるのではありません。
 イエス様はそのようなニコデモに風の話しを始められました。7節以下「あなたがたは新たに生まれなければならないとあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と。
 イエス様は本当にすばらしい話し手でいらっしゃる。話術のことではなく、その発想がです。がんじがらめになっているニコデモに、風のことを思い出してご覧ん、と仰るのです。
 神様の祝福や恵みに与っているとは到底思えない人々に、それは、人間が根本的に神様から離れてしまっていること、それを聖書は、罪と言うです。何か具体的に、あのことこのことで悪事を働いて罪を犯している、と言うより、神様の懐に守られているのではなく、いつもどこかで何かにビクビクして生きている。そういう人間に、イエス様は神様の風を送って下さっていると言うのです。
 イエス様が教えて下さった風は、捕らえどころのない、得体の知れない風ではありません。神様が動き活動してくださることによって生まれる風です。目に見えない神様が私たちのために働いて下さる霊の風なのです。ニコデモにもイエス様とのやり取りを通して今、もうその風が及んでいるのです。
 イエス様はニコデモとの話しを進めて、14節以下の御言葉を宣言されました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」特に上げられると言う言葉は、イエス様がそのために十字架に上げられることが意味されています。
 説教前の聖書朗読は15節までとしましたが、つづく16節はとても重要な聖書の言葉で、色紙に書いたり、日めくりカレンダーなどにも採用されるとても有名な聖句です。聖書全体の神様の呼びかけが集約されていると言ってもいい御言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」この有名な聖句はヨハネによる福音書の中で、今日のニコデモとの出会いの中で、イエス様が呼びかけてくださっているのです。
 私たちの周囲には、脇目も降らずに、自分に自信をもって生きている人もいると思います。神様との出会いなんか今必要としていない、特に不自由を感じていないし、新しく生まれ変わりたいなどととか考えていない、という人もきっといることでしょう。
 イエス様は、自分にもの足りなさを感じたり、やり直したいと思っている人だけに働きかけてくださるのでしょうか。そうではありません。イエス様による、神様の磁石のような惹きつける力は、必要を感じているか感じていないかを越え、全ての人に注がれています。イエス様は、ニコデモのようにイエス様のところに来た人々だけでなく、来ることのできない人、イエス様のところなんかに来る必要はないと思っている人こそが、大事だと受けとめてくださっているのです。イエス様はこの「世」全体のために来てくださいました。すべての人のために。人間である以上、イエス様による神様の恵みの引力に反応しない人はいないのです。そもそも神様は、私たちを神のかたちに創造してくださったと聖書は伝えています。鉄の成分をもつ物はいろいろ違いはあってもそこに磁石が近付くと皆その磁力に反応し、惹きつけられ、その磁石の力に整えられるのです。そのように、イエス様は、神様の恵みの御支配の中に存分に生きられない人を招き、新しく生まれさせてくださり、そして神の国にいき、永遠の命を与えてくださっています。
 私たちは人生の成功や失敗で喜んだり、悲しんだり、またやり直したい、生まれ変わりたいと願ったりします。しかし、私たちをお救い下さる神様は、自分の力や他の人の力、そしてこの世的な力を頼りにするのではなく、イエス様が十字架に上げられたことによって現わしてくださった神様の愛にお頼りするとき、私たちはまったく新しくされ、生まれ変わることができるのです。ここに、本当の意味で、やり直すことのできる人生が拓かれているのです。