礼拝説教 2007年9月23日

2007年9月23日 「あなたの心の中に生きる御言葉」
申命記 30:11-14  ローマの信徒への手紙 10:6-9
矢部 節 伝道師
 主イエス・キリストは、わたしたちの救い主です。そのことを聖書全体が証ししています。聖書は大きく二つのまとまりからできています。旧約聖書と新約 聖書です。特に大きな部分を占めているのは旧約聖書です。新約聖書の三倍ほどの分量があります。しかし、そこには主イエス・キリストは、直接には出てき ません。この意味では、旧約聖書だけを読んでいたのでは、主イエス・キリストに出会うことはできないのです。いや、実際には出会っていながら、気づくこ とができない、と言うべきでしょう。確かに旧約聖書に、直接、出てくることはありませんが、主イエス・キリストを指し示しているからです。すでに、新約 聖書を通して、主イエス・キリストと出会っている人が、旧約聖書が主イエス・キリストを指し示している。そのことを頭の片隅にでもおいて旧約聖書を読む とき、旧約聖書の中にも主イエス・キリストを見出すのです。
 今日与えられた御言葉は、旧約聖書の御言葉です。それは申命記の中の御言葉です。さて、この書名ですが、申命記といわれて、何のことかおわかりでしょ うか。改めて聞かれると考え込んでしまうのではないかと思います。ヘブライ語の聖書では、書名は書き出しの言葉であらわしました。そこで、この第1章1 節を見ると「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」とあります。ヘブライ語では、日本語とは語順が違い「これらの言葉(エーッレー・ ハッデバーリーム)」が文頭にあって、その書名となっています。ところが、デューテロノミーのように英語などの語源となっている方の書名は、ギリシア語 に訳された聖書での呼び名で、この書物は「第二の律法」という意味です。「この律法の写しを書物に書き記せ」とある「この律法の写し」が「第二の律法」 と誤ってギリシア語に訳されたためだと言われています。これを訳した日本語の申命記という呼び名ですが、「申」という字には「重ねて」という意味があ り、「重ねて命じた書」と言う意味となります。
 書名について見てきたのは、今日の御言葉が「私が今日あなたに命じるこの戒めは」とはじまるからです。この戒めとは、何を指しているのでしょうか。 「戒め」は律法や掟、命令などと同じような意味で用いられています。申命記が「これらの言葉」ではじまり、「この律法の写し」が申命記を指していると理 解されていることは、注目してよいことです。実に、申命記を読んでいくと、しばしば、「私が今日あなたに命じるこの戒めは」と似た表現が出てきます。細 かな違いはあります。「あなたに」が「あなたがた」だったり、「今日」があったりなかったり、「この戒め」が「これらの言葉」や「すべての言葉」であっ たりします。いろいろと言い換えはあるものの、神が命じた言葉である聖書の言葉を指していることには違いありません。それがどの範囲かはいろいろに読め るのですが、「申命記を意味している」として大きな間違いはないでしょう。このような表現で言われているのは、申命記とはどのような書物で、どう取り扱 うか、ということです。申命記の中に申命記の取り扱いについて書いてある、というのは、法律の条文に、この法律は何年何月何日から実施する、と書いてあ るようなものでしょう。
 今日の御言葉は、似たような表現が何度も出てくると言いましたが、それぞれの文脈で、それぞれの意味を持っています。この第30章では、この第30章 の文脈で考えなければなりません。第1節では「私があなたの前に置いた祝福と呪い」といい、今日の箇所に続く第15節では「見よ、わたしは今日、命と幸 い、死と災いをあなたの前に置く」といっています。そして、御言葉に従うなら「祝福を受けるように、命を選びなさい」と勧めています。
 誰だって、命を得たいし、祝福を受けたい、そして、神さまに従っていきたい。そう願うはずです。はい、神さまの命じる言葉を守ります。そういいたいと ころではありますけれども、そういってしまうことのできない躊躇があるのです。今日の御言葉の直前の段落には主に立ち帰るようにとの呼びかけがありま す。主のもとに立ち帰って、御言葉に聞き従うようにと言われるのは、実に、御言葉から離れてしまったと言うことです。神から離れてしまったから、立ち帰 るように言われるのです。イスラエルの民は、御言葉に聞き従うことができず、神から裁きを受けて、追い散らされてしまったのです。第29章、第30章は バビロン捕囚が前提になっています。こういうとおかしいなと思われる方もいるでしょう。モーセが、ホレブでの契約とは別に、モアブで結んだ契約として 語っているからです。もともとの契約は古いものであったかもしれませんが、申命記として一つの書物にまとめた人たちは、バビロン捕囚の時代に、この御言 葉を聞いているのです。バビロン捕囚というのは、バビロニアによって、ユダ王国が滅ぼされてしまい、イスラエルの民は強制移住させらたことを言います。 バビロン捕囚の時代に、主に立ち帰り、御言葉に従うようにと呼びかけられたイスラエルの民は悔い改めて主に立ち帰ろうとします。しかし、神に背いてし まった自分たちの弱さを知っているが故に、御言葉に従う自信がないのです。神の与えた律法はわたしたちにはとても行うには難しすぎる、遠くてとても手が 届かない。そういう失意にある民に、神は、今日の御言葉を語りかけているのです。
 「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」神はこう言い切ります。わたしたちがいいわけするであろ うことを想定して、それが遠くないことを二つのたとえで説明します。「それは天にあるものではないから、『だれかが天にのぼり、わたしたちのためにそれ を取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。」天にある、「天にのぼる」というのは、当時、空を飛ぶことはでき ませんでしたから、これは、不可能なことをあらわしています。この場合の「天」というのを、神さまのいらっしゃる場所と考えれば、飛行機があろうが、ロ ケットがあろうが、人間には無理な事だといえるでしょう。しかし、神は「それは天にあるものではない」といいきります。さらに「海の彼方にあるものでも ないから、『だれかが海の彼方に渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。」と もいいます。海の彼方は、当時の世界観では、世界の果てを表しました。地球が球体であることを知らなかった時代の理解です。しかし、神は、「海の彼方に あるものでもない」と言われます。それではどこにあるのか。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができ る。」と、このように神は言われるのです。
 イスラエルの民が「だれが取って来てくれるだろうか」というと「取りに行く必要はない。すぐ近く、いや、あなたたちの口と心にある」と答えられるので す。「わたしは、大切な戒めをあなたたちの口や心に与えたではないか。どこを探そうというのだ。」
 わたしたちは、今、ここに聖書を手にしています。御言葉が書物の形で与えられています。しかし、神は口や心にといっているのです。この違いはとても大 きいかもしれません。目の前に聖書があっても、それを読んで、心にとめなければ、近いとは言えないでしょう。印刷技術が普及する前には、聖書は手で書き 写さなければなりませんでした。書物としてさえ、容易に手にすることは難しかったのです。そういう時代には、礼拝で、朗読される御言葉を漏らさずに聞き 取ろうとしました。また、朗読する者も、心に刻み込まれるように、抑揚をつけて印象深く読みました。また、会衆は、讃美歌を歌います。御言葉に節をつけ ることで身につけているのです。御言葉が口と心にあるというのは、こういう事です。
 申命記においても、すでに、第6章の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。」で始まる箇所、あの、主イエス・キリストが、最も重要な教え の一つとされた「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉に続けてこう言われています。「今日私が命じ るこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさ い。」といわれます。つまり、繰り返し、御言葉を口にするのです。御言葉を生活化していくのです。御言葉を体にしみこませるのです。わたしたちは、しば しば心と体を切り離して考えがちですが、イスラエルの民は、心と体は切り離せないもの、一つのものと考えます。身につけると言うことは心にしみこむこ と、心に刻み込むことであり、心に刻み込まれたものは、行いとしてあらわれる、と考えるのです。
 「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、行うことができる。」神さまは、自信を失っているイスラエルの民にこう語りかける のです。この福音は、キリスト者にも受け継がれています。つまり、この福音はわたしたちにも語りかけられているのです。パウロが「ローマの信徒への手 紙」第10章に、今日のこの申命記の御言葉を引いています。
 信仰による義については、こう述べられています。「心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。」これは、キリストを引き下ろすことにほかなり ません。また、「「だれが底なしの淵に下るのか」と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、なんといわれ ているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエ スは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマの信徒への手紙10章6節 以下)
 ここで、パウロは「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」と言っています。モーセの時代であろうと、バビロン捕囚の時代であろう と、パウロの時代であろうと、そして、わたしたちの時代であろうと、御言葉は、生きた言葉として働いているのです。パウロは「信仰による義について」と 語っているのですが、パウロの言葉の焦点は確かに、信仰による義にあるとしても、申命記の言葉は「それを行うことができる」とも言うのです。
 これは、決して矛盾していることではありません。パウロが信仰による義に焦点を当てているのは、当時、律法が形骸化してしまっていたからです。律法の 精神、律法の本質がないがしろにされてしまっているため、「行いによって義とされるわけではない」と言うのです。信仰によってこそ、つまり、信仰のみに よって義とされる、これは正しいことですが、それにとどまらず、「行いとして現れ出ない信仰はない」と言うのが、申命記の「それを行うことができる」と 言う言葉が示すことです。信仰のない行いはあっても、行いとならない信仰はない。これが、申命記の伝える福音です。御言葉は近い。だから、行うことがで きるのです。
 わたしたちの与えられている御言葉は、さらに豊かなものです。旧約聖書に加えて、新約聖書も与えられています。しかし、わたしたちもイスラエルの民の ように、御言葉の前にしばしば躊躇するのです。主イエス・キリストが、山上の説教でおっしゃったことを思い出してみましょう。「殺すな」と言われている が、兄弟に「ばか」と言うのも同罪である。仲直りしなさい。「姦淫するな」と言われている、しかし、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心 の中でその女を犯したのである。さらに、復讐するな。敵を愛しなさい。そこまで言われると、とてもわたしたちには、不可能に思えます。イエスさまには、 おできになっても、とてもわたしたちにはそこまでは無理です、と言いたくなります。
 パウロは、申命記の「それを行うことができる」と言う言葉を引用してはいませんが、わたしたちに近い御言葉が主イエス・キリストであることを示してく れました。主イエス・キリストがわたしたちの口にあり、わたしたちの心にあるのです。だから、それを行うことができるのです。主イエス・キリストが天か ら下りてきてくださり、わたしたちの罪を贖ってくださっています。わたしたちは、自分の弱さに、躊躇しなくてよいのです。主イエスは死者の中から復活さ れたのです。そして、命の御言葉としてわたしたちを生かしてくださっているのです。主イエス・キリストは、わたしたちの心の中に宿って下さり、わたした ちを御言葉に生きる者としてくださっているのです。