礼拝説教 2007年5月27日

2007年5月27日 「私たちに聖霊を注いでくださったメシア」
エゼキエル書 36:25~28
使徒言行録 2:29~36
古屋 治雄牧師
 今朝は、お気づきのように教会の暦の中で聖霊の注ぎを豊かにいただいたということを礼拝の中でも表し、司式台に赤色の台掛けが用いられています。ペンテコステというのは50日という意味ですが、これは今年では4月8日のイースターから50日経っているという意味です。クリスマス、イースター、ペンテコステを3大主日、3大聖日と言います。この3つの中では、このペンテコステは認知度が低いかもしれません。クリスマスやイースターの礼拝後には愛餐会をしますが、ペンテコステの主の日に愛餐会をしている教会を皆さんはご経験があるでしょうか。愛餐会をしないから軽視しているというわけでは決してありませんが、今日はクリスマスやイースターに劣らない、大事な日曜日です。
 2章の初めに次のように伝えられています。五旬祭(50日目という意味ですが)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 この後にもこの出来事の様子が伝えられていますが、これは大変不思議な出来事です。クリスマスやイースターも不思議ですが、不思議さの内容が少し違うように思います。
 時々この日の様子を絵に描いたものを見ることがありますが、一人一人の頭の上に炎のようなものが留まる。どういうことなのだろう?私たちは、そのように思うのです。少し間を省略いたしますが、あまりにも不思議な出来事なので、このことを見ていた人々が、何かこの家に集まった人たちは、夜でもないのにお酒を飲んで酔っぱらっているのではないか?13節「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と誤解されるほどでした。
 本当に酔っぱらっている光景だったら、だれも好感をもたなかったでしょう。何とだらしのない人たちだろう、と軽蔑されたに違いありません。しかし、これらの人々は、今までにはない、それぞれ自分の言葉で神様を賛美し、めいめいが生まれた故郷の言葉で神様が誉めたたえられている、ということが、その人々に体験されたのです。この出来事の中心は、この一点にあります。
 ペンテコステ派という教会があります。20世紀になって特にアメリカでこの教派の人が生まれました。聖書にはパウロの手紙などを見ても、異言を語る人々、普通な言葉とは違う、不思議な言葉を語る霊的に高揚した人々がいて、コリントの教会にもそういうことがあったようです。ペンテコステ派の人々は、そのような異言を語ることをとても大事にし、また神様の不思議な力をいただいて、普段ありえないような、癒しの出来事を為すことができる、と信じられていました。
 私たちも信仰生活の中で、聖書に出てくる、異言や預言者が大変恍惚状態になって、普段とは違う働きを為すことを時に聞いたりすることがあります。そして、そういうことは、怪しげなことなのではなく、聖書の中にしっかりとその位置を持っています。パウロも異言が語られるということを受け止めています。
 私たちは三位一体の信仰を聖書の信仰として、信仰告白の中で告白をしています。私たちも日々の信仰生活中で、聖書を読んだり、信仰書に触れたり、誰かの話を聞いたりして、本当に心が豊かにされ、言葉では言い表すことができない、充実感を体験するということがあるかと思います。また、何かの拍子に得も言われぬ力を感ずる。そういうこともあると思います。そしてそれは、怪しげなことではなく、信仰生活の中で霊的な働きかけを私たちが、これは聖霊の働きかな、と思ったり受けとめたりする。また時にはそういうことが証しされる。そういう霊的な経験は私たちの信仰生活の中に大切なこととして位置づけられるのです。
 しかし、霊的な熱狂というそのことだけが価値あることとして、また特殊な神秘的な経験ということだけが大事にされ、強調されますと、主イエスが約束してくださった聖霊ということが誤解されたり、あるいはあらぬ方向に進んでしまうことになりかねません。
 ペンテコステの出来事が使徒言行録2章に伝えられていますが、この不思議な出来事があって、一部の人々が新しい酒に酔っているのではないか、と思った人もいましたが、それを受けて実はペトロが立ち上がって、人々に話しをしていくという展開になるのです。少し先のところですが、41節「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日(ペンテコステの日)に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」ペンテコステの出来事は、なにか皆が普段とは違う言葉を異言として語り出したこのことで終わっていないのです。霊的な熱狂で、神秘的な経験をしましたということに終わっていない。この日エルサレムに集まった人々の中にペトロの呼びかけがなされ、この群衆の中に、自分たちはこれからどういう生き方をしたらよいかを考え、自分の人生、自分の生き方、自分の日常生活を顧みるきっかけを与えられたというのです。この点を見過ごしてはなりません。この日熱狂が渦巻き、人々がその雰囲気に酔いしれてしまったのではないのです。
 ペトロの説教のポイントを絞ってみますと、ユダヤの人々を目の前にしてペトロは、ダビデのことを語ります。ダビデというと当時の人々は、確かに自分たちに大事な歴史を与えてくれた初代の王様だ、そして、ダビデよりもっと強い王様がメシアとして登場し、イスラエルの今のみじめな状態を打破してくれる、と連想していました。当時の人々が、ダビデを懐かしく思い、そしてメシアを待ち望んでいたことをペトロもよく知っています。しかし、そういう期待をもっている人々に、ペトロはダビデのことを引き合いに出し、ダビデは歴史の中に登場した大事な王様ですが、29節、「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにある。」当たり前のことですが、ダビデは確かに立派な王様でしたが、死んで葬られ、墓がある、と言うのです。
 このことはしかし、死に拘束されない、死んで終わりにならないメシアがやがて来てくださるということをダビデ自身が予言していた、とペトロは語っているのです。当時の人々の中には、ダビデに対して尊敬の気持ちを削がれるようにペトロの話を聞いたかもしれません。
 イエス・キリストは十字架で死なれた。しかし、このイエス様を神様が死の中に留め置くことをなさらずに復活させてくださった。そして、それは皆が尊敬してやまないダビデ自身が予言をしていた方だ。ここに決定的な違いがある。これまでの目に見える、力に満ちたダビデの再来を期待していた人々の期待と違う、イエス様がおられる。
 実は使徒言行録の中で弟子たちは、復活のイエス様と会うことができて、力付けられているのですが、このイエス様に1章の6節、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」そういう期待を、復活の主に投げかけているところがあります。ですから、使徒たちもイエス様にまみえているのですが、まだダビデの再来としてイエス様が、イスラエルのこの国を建て直してくださると思っていたことが読みとれるのです。この期待の中には目に見える形で、ローマに虐げられているユダヤの民がイエス様の力によって解放してもらえるのではないか。そういう期待が少し見え隠れしていると言ってもよいかと思います。でも、イエス様の復活というのは、イエス様を死に至らしめた力、つまりイエス様を死に追いやる私たちの気持ちや価値観、願いが最終的な力とはならなかったということであり、イエス様を死に至らしめた力が、イエス様を復活の力させた神の力に敗北したことを明らかにしたのです。
 そして、一番はじめは熱狂的な雰囲気に飲み込まれそうであった人々も、ペトロのこの説教をきいて心をうたれ、私の生き方はこれでいいのだろうか、今までこういう気持ちで生きてきたが、このまま歩んでいいのだろうか、そのように変えられていったというのです。ここにまさに、ペンテコステに注がれた御霊の注ぎが生きて働いているということが現れている。私たちは不思議さだけに目を奪われてはならないのです。
 今朝ひとりの姉妹が信仰を告白し、洗礼を受けました。これは私たちの教会に教会全体に、神様が目に見える形で注いでくださっている御霊の働きとして私たちは畏れをもって受け止めることができるのです。洗礼式だけではありません。私たちひとりひとりにも目に見える形をもって、イエス様が十字架で滅んでしまわないで、復活してくださったということが力となって働いているのです。
 ペンテコステのペトロの説教は重要な役目を担う説教となりました。大変不思議な出来事としてイエス様がよみがえってくださった。この復活のイエス様に直接出会った人々がいました。この人々はしかし限られています。それでは、直接イエス様のよみがえりを見ていない人々に、なぜその信仰は伝わったのでしょうか、そんな不思議な出来事が。直接の復活の出来事をみた人々ではなく、そういうニュースを聞いた人々が、イエス様はよみがえってくださったことを絵空事でもなく、ありもしない単なる不思議なことでもなく、私たちの生き方を根底から変える力を持っている、と受け止めることができたのです。どうして主の復活が力であり希望であるとが伝わったのでしょうか。それは、主ご自身が約束してくださった聖霊がそこに働いたからです。
 これらの人々は一生懸命自分の力で聖書を解きほぐして調べて、納得したのではありません。勉強の積み重ねでそのことを了解したのでもありません。神様の御霊の働きに打たれて、直接の復活の証人となったあのペトロたちと変わらない、確かな信頼できる、希望を持つことのできる福音を信ずる者とされたのです。それはなぜか、神様ご自身の聖霊がこれらの人々に注がれているからです。
 主がよみがえられたということは、主が生きておられると言い換えてもよいかと思いますが、ある人がこう言っています。主イエスが生きておられるということは、彼らがただ主を見たというだけのことではなくて、実際に主が生きて働き、また彼らが主によって生きている、そのことに他ならない、と。私たち一人一人が不思議なことに、復活の望みを知るものとされ生きているということです。そのことによって真に主が生きておられるということが、どこかよそで起こったことではなくて、私にそのことが起こっている。そのことを通して、主は生きておられるのです。
 聖霊降臨日は不思議な事ですが、私たちは不思議なできごととしてまつりあげてしまうのではなく、私たちの信仰生活に引き寄せることができる。先週の夕礼拝の中でも聞いた、パウロの言葉でありますが、パウロは一生懸命伝道しました。輝かしい伝道の成果というよりも、いろいろな困難を担い本当に自分は伝道者として働き続けることができるか、そういう不安もときにもったのではないかと思うのです。これはコリントの信徒への手紙2の御言葉ですが、今や恵の時、今こそ救いの時。私たちはこの奉仕の勤めが非難されないようにどんな時にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。…栄誉を受けるときも辱めを受けるときも悪評を浴びるときも好評を博するときにも、そうしているのです。私たちは人を欺いているようでいて誠実であり、人に知られていないようでいてよく知られ、死にかかっているようでこのように生きており、罰せられているようで殺されてはおらず、悲しんでいるようで喜びに充ち、物乞いのようで多くの人を富ませ、無一文のようですべてのものを所有しています。
 パウロは御霊の働きを心から信じその御霊の働きを自ら証しし、その御霊の働きを受けて教会設立に奔走し、そして伝道者の苦悩を担い諸教会の群れの人々と喜びや悲しみを共にする中で使徒としての役割を担った人です。パウロを支えていたのは何でしょうか。パウロの熱心さでしょうか。違います。パウロのユダヤ教時代の聖書に対する知識でしょうか。そんなものではありません。パウロはそのようなもの一切かなぐり捨てて、今塵あくたのように思っていると言い切りました。伝道者パウロはいつも伝道のめざましい成果を与えられたのではなかったのです。迫害を受け、人々から忌み嫌われ、殺されそうにもなり、物乞いのようなときさえあった。でも、そのような中にも神様の働きが生きている。これは、私たち一人一人にも注がれている神様の御霊の働きです。パウロは別な箇所でも、イエス・キリストは救い主である、とは御霊の働きがなければ到底告白することができないと言っています。本当にそうだと思います。私たちの信仰生活は拙いものであり、しっかりとした基盤に立っているとは言い難いものかもしれません。でもこのように一緒に礼拝し一つとされ、聖餐にあずかり、主の教会に連なる枝とされている。そのことに望みがあるのです。そして、そのことは確かなことです。私たちは互いに支え合い、励まし合い、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く。そんなにぱっとしない信仰生活でもいい。でも、聖霊の注ぎを受けて確かに私たちは今日あるを得ているのです。そのことが心から告白されるとき、私たちは確かに聖霊を受けているのです。
 主イエス・キリストは、聖霊降臨日を通して私たちが気づいていないようなところで、私たちが目を止めることを怠っているような所に聖霊を注いでくださっている。どこにその確かな力が注がれているか私たちは見落とすことがないようにしなければなりません。あの2000年前の聖霊降臨日のあの群れと同じように私たちも困難を背負うことでありましょう。しかし、このことはすでに私たちに勝利が約束されているのです。