礼拝説教 2007年5月27日

ペンテコステ夕礼拝説教
2007年5月27日 「信仰へと新しくする神」 ※説教の要約です
使徒言行録 2:11
矢部 節 伝道師
 ペンテコステ、おめでとうございます。聖霊の働きはわたしたちを主イエス・キリストにあって生かすことにあります。わたしたちに聖霊が送られていることを喜びたいと思います。
 五旬祭(ペンテコステ)は、聖霊降臨日とも訳されます。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大祭りと言われますが、日本では、教会以外では、ほとんど知られていないのではないでしょうか。イースターもそれほど知られていないかもしれません。クリスマスにしても、教会が「本当のクリスマス」と強調しなければならないくらいに、世間では、にぎわいだけのお祭りになってしまっています。そのことを思うと、救いの出来事を祝う喜びをこそ伝えていかなければならないでしょう。
 ペンテコステは、ユダヤ教では七週祭と言われており、過越祭の第二日から五十日目の日であったので、この名がつきました。ユダヤ教の三大祭りはもうひとつあり、仮庵祭とも呼ばれ、もともとは、いずれも収穫に関わるお祭りでしたが、出エジプト以降、特別な意味合いを持つようになりました。さらに、神の救いの御業としての主イエスの復活の出来事によって新しい意味を持つようになりました。
 その主イエスが復活されて、四十日、弟子たちと共に過ごされて、いよいよ、神の国がこの地に建てられるかと思っていると、天に昇っていかれました。しかし、「再び来る」との約束が御使いによって告げられました。いつ来るのかは分かりません。そのときまで、聖霊がともにいてくださるように、わたしたちに送られました。そのことを覚えるのが、聖霊降臨日(ペンテコステ)です。
 その日、一同は家に集まっています。
 おそらく、二階の部屋でしょう。教会は家から始まったのです。今でいえば家庭集会が教会の始まりでもあります。一つになって、あつい祈りが捧げられていたに違いありません。何を祈っていたのでしょう。主イエスの約束された聖霊を祈り求めていたのではないでしょうか。そこに突然、激しい風が吹くような音が響き渡ります。
 聖霊が降ったのです。「霊」は、ギリシア語でもヘブライ語でも「風」という意味もあります。それは、目には見えないけれども、働いているからでしょう。「炎のような舌」というのは、不思議なイメージです。ルカによる福音書では、「聖霊と火によるバプテスマ」と言われるように、聖霊の働きには、燃やすイメージがあるのです。それは、審判の火、悪を、罪を滅ぼしてしまう炎、清めの火という意味合いがあるでしょう。古いものを燃やし尽くして新しくすることが象徴されているのです。
 「舌」は、「言語」という意味もあります。不思議なことが起こります。「一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。」これは奇跡です。いろいろな国に住んでいたユダヤ人がエルサレムに帰ってきていたのですが、物音に集まってくると、自分の故郷の言葉を耳にするのです。自分たちのわかる言葉が話されている。何を話しているかがわかる。「神の偉大な業」が語られているのです。そのことをきいてわかるというのが、聖霊の御業なのです。聖書が、各国語に訳され、また、日本語にも訳されていることにも、聖霊が働いているに違いありません。御言葉はわたしたちにもわかるのです。
 弟子たちによって「神の偉大な業」が、語り始められたこのときが、伝道の始まり、宣教の始まりとして、覚えられてきたのです。そして、聖霊がわたしたちに与えられたこの日を教会の誕生日として祝うのです。
 聖霊は、文字通り「聖なる」霊です。「聖なる」というのは、「神に属することとして分けられている」ということです。霊といえば、いろいろな霊を思い浮かべることができますが、聖霊は、そういった諸霊から区別されます。聖霊が降ることによって教会が始まったということは、教会も「神に属するものとして分けられている」ということです。使徒信条に「聖徒の交わり」と告白されるのは、聖霊の項目においてです。罪人の集まりである教会が「聖徒の交わり」つまり、聖なる者たちの集まりであるのは、主イエスを頭として、主イエスの罪のあがないに与っているからですが、それは、わたしたちが、「イエスは主」と告白するからです。そして、信仰を告白できるのは、わたしたちに聖霊が働いているからです。わたしたちは、聖霊によって、「神の偉大な業」を知ることができ、それを信じることができるのです。
 聖霊は御言葉の働きです。御言葉により、信仰の命を吹き込まれます。生きる力が、日々、新たにされます。いつも、聖霊が注がれていて、復活の主イエス・キリストが、わたしたちとともにいてくださいます。そして、聖霊によって、信仰へと命が与えられ、神の方に向かって、わたしたちは新しくされていくのです。わたしたちの生きている一瞬一瞬が、聖霊の息吹であり、救いの御業なのです。