礼拝説教 2007年12月24日

クリスマスイヴ礼拝説教
 2007年12月24日「イエスの誕生を受け入れたヨセフ」
古屋 治雄 牧師
 今宵私たちは2007年のクリスマスのローソクの光に照らし出されています。私たちを照らし出しているこの光は、普通の光ではありません。
 クリスマスの光は神様からの光です。
 クリスマスの光は人々を引き寄せます。この光は、暗闇にうごめく怪し気な者を探し出す強烈なサーチライトの光ではなく、私たちの心に安心と平安を与える優しい光です。私たちもこの光に照らされることを喜び、クリスマスの光を心に受け入れる者とされるのです。
 クリスマスに登場する人々は、始めはクリスマスの光が輝いたとき、本能的に恐れを抱きました。私たちはいつも神さまの光を喜んでいるかというとそうではありません。神さまに照らし出されることを避けようとする思いが心の中にあるからです。
 しかしクリスマスの光は、そのような私たちの心に、こわがるのではなく、心に平安が生まれる新しい灯火をともしてくださいました。
 クリスマスの光は、普通の光ではなく、そこから確かな神さまの声が聞こえてきます。そうです、クリスマスの光は神さまの御声なのです。その声は、私たちを厳しく問い詰める裁判官のような声ではなく、神の祝福と恵みを存分に受けて生きるように招いて下さる声なのです。
 救い主イエス・キリストの誕生の出来事は、婚約中のヨセフとマリアの二人に託されました。この若い二人はいずれもクリスマスの出来事が始まった時、恐れの思いを抱きました。その中から神さまの光に照らし出されて大事な役割を担う者とされたのです。
 ヨセフは当時有名な人ではありませんでした。マリアもそうです。神さまの貴い救いの計画を初めから予感していて、待っていましたと登場したのではありません。ユダヤの伝統を受け継いで、誠実に生きようとしていた若い二人ですが、当時の社会ではごく普通のありふれた二人で、ささやかな家庭を間もなくもつことができると、幸せな結婚生活を描いていたのです。
 神さまの救いの計画がこの二人に託されました。ヨセフは自分には身に覚えがないのに婚約中のマリアが新しい命を宿したのです。
 ヨセフはこのことが明らかになってきっと幾日も眠れぬ夜を過ごしたと思います。希望に満ちた将来の新婚生活どころではなく、闇の中にあり、愛してきたマリアをも、自分自身をも見失いかけていたのではないかと思われます。
 どうして良いかわからない絶望と闇で覆われたヨセフの心に光が差し込み、ヨセフは、絶望と不安を希望と平安に変えてくださる神さまの声を聞くことができました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」
 ヨセフは神さまからの御声を聞いて、恐れと不安の思いから喜びと確信へと変えられました。
 ヨセフに臨んだクリスマスの光とその御声は、今夕私たちにもクリスマスの光となって臨んでいます。
 ヨセフは、ダビデの家系に連なり神さまの救いの計画の中に生きる大事な一人でした。神さまの救いの計画は私たち一人一人も皆その中に導き入れられているのです。ヨセフが選ばれたのは、すべての人が皆神さまの救いの計画の中に結ばれていることが明らかになるためでした。
 クリスマスの光に照らし出されたヨセフは、マリアを疑うことから変えられました。一緒に生きる人を信頼することができなくて苦しみ悩む者が、新たに信頼を築く者へとかえられたのです。クリスマスの光は人と人との信頼関係を断絶していくのではなく、信頼関係を築き上げていく力として働いていくのです。
 ヨセフとマリアにとってクリスマスの出来事は、幸せを実感する出来事というより、苦悩を負う中で神様の救いの歴史を担う経験となりました。このこともクリスマスの光に照らし出される者が共通して教えられることです。ヨセフはこの後エジプトに幼いイエスさまを連れて逃げなければなりませんでした。人間的にみればこれは大変辛いことです。しかし、救い主の命を守る大切な役割を担ったのです。私たちもクリスマスの出来事が幸せ一杯の出来事として受け止めるだけでなく、神さまの救いの計画に参与するのです。その大事な一部分を担う者とされているのです。
 マタイによる福音書によると、クリスマスの出来事は「インマヌエル」の出来事、つまり「神さまが共にいてくださる」出来事であると示されています。私たち一人一人の人生の中に神さまが伴ってくださり、一人一人がちゃんと覚えられて、救いの歴史の中に結ばれ、試練や艱難を受けることが時にあっても守られて、神さまの救いの中に生かされていることを知らされるのです。
 ヨセフにとってのクリスマスの中から、私たちにも注がれているクリスマスの恵を受け入れることができますように共に祈りましょう。