礼拝説教 2007年12月23日

2007年12月23日 「御子イエスと共に歩むヨセフ」
イザヤ書 43:1~7
マタイによる福音書 2:1~15
古屋 治雄 牧師
 2007年のクリスマスを私たち今朝迎えることができました。神様が私たち一人一人を、この喜びの中に招いてくださっております。そして、私たちのすべてにおいて、どんな時にも、どんな場所にも、どんな境遇の中にも、クリスマスを通して神様が共にいてくださるということが、ここに明らかにされているのです。
 クリスマスが近づきますと、クリスマスについての問い合わせをしばしば受けます。先週も何件か問い合わせがありました。「クリスマスの礼拝は何時からですか?」「どのように、だいたい場所はわかっていますけれども、行くと教会ありますか?」「初めてなんですけれども、礼拝というのに出ていいんですか?」そういう問い合わせもあります。
 クリスマスは、いろいろな力を持っていると思います。私たちを引き付ける力を持っていると思います。少し目を広く向けますと、クリスマスになって、いっそう忙しい人たちも一方にいると思います。クリスマス・セールやクリスマスこれこれという特別なイベントがあって、そういうところでクリスマスを迎えている人々も大勢いると思います。
 また、年末の時期ということも重なって、じっくりクリスマスを迎えたいのだけれども、なかなかそれがかなわない。そのように思っている人々もいるかと思います。教会への問い合わせが何軒か今年もありましたけれども、よくよくそのような動向を見てみますと、一方にクリスマスの忙しさ、慌しさがある反面、何かを求めている、静かなときを求めている。また、日頃あんまりそういう気持ちにはならないけれども、クリスマスのときは自分の心を見つめたい。
 今年はイヴ礼拝、明日の礼拝はろうそくを使うことを決めましたけれども、ろうそくの柔らかい光に照らし出されて、自分の心の内側や、自分の生き方をもう一度できるならば考えてみたい。人々の中にそのような思いを生み出してくださる。これは聖書の神様のクリスマスの働きかけそのものだと思うのです。
 神様の働きかけ、とくにクリスマスを通して神様が私たちになしてくださったこと。2000年前の昔ではなくて、いまもクリスマスを通してなしてくださることは、よくよく気をつけないと見過ごしてしまうようなことだと思います。
 忙しさの中にそのままずっといると、気づかないかもしれない。神様の働きかけは、私たちの常識、私たちの効率や結果を先取りする思いからすると、予想もつかない形で私たちにその働きかけをなしてくださっていると思います。
 うっかりすると人目につかない、気づかない。多くの人はそんなことは知らない。小さいところから神様は実に世界をも変えてくださるような大きな恵みの出来事をなしてくださったのです。
 今年はマタイの福音書のクリスマスの出来事に、御言葉として聞いておりますけれども、見過ごしてしまうかのような小さな働きを一番始めに受けたのが、クリスマスに登場する一人一人であり、また、その中のあのヨセフであります。
 ヨセフが夢の中で苦悩しつつ、悶々としているそのときに受けた神様からの指し示しは、ヨセフに取りましては重大なことであり、自分の一生を左右するようなことでありましたけれども、そのことを周囲の人々はどれだけ気づいていたでありましょうか。おそらくヨセフの心中を見抜いていた人は、マリアはヨセフの変化に気づいていたかもしれない。また自分にも同じように神様の働きかけがあったことを受けとめていたと思いますが、当時生きていた多くの人々は、ナザレに住む、あんまり名前も知られていない、辿っていくとダビデの家系になる、このヨセフの中にどういうことが起こっていたか、多くの人々は知らないのです。
 そして、いままでと同じように日々の生活をし、そしてその中に多くの人々が忙しさの中に奔走している。しかし、ヨセフにこのことが臨んで、ヨセフはそのことを苦悩の中で受けとめましたけれども、自分たちの思いを越えて、神様が始めようとしておられる大きな計画、私たちの常識では受け止めることのできない、そのことを神様の特別な知恵によること、聖霊の導きによることとして、受けとめて、ヨセフは新たに歩もうと決断をしたのであります。
 神様は、ごくごく身近な小さいところから、救いの計画を着実に実行されると申しました。このように始めてくださった救いの計画は、それじゃ、ずうっと小さいところで、多くの人に憶えられない、忘れ去られる、そんなことがあったのか、そういうことかというと決してそうではないのであります。
 そのことが2章のこのヘロデの反応に結びついてきます。神様のお働きは小さいところから、というだけではなくて、私たちの常識を越えている、私たちの普通の発想を越えている。これは、神様の計画にそのような形で触れる人々は不安になるのです。待ってました、明日にもそのようなことが起こると待ち構えていました人はいない。神様の救いの御計画は、秘儀、ミステリーといってもよいと思います。それゆえに、ふつうの常識的な判断をする人々にとりましては、これは謎であり不安になるのです。
 イスラエルの人ではない、異邦人であり外国人である占星術の博士たちが、神様の導きによって、そのことを知らされて、新しい王に会いにくる。その知らせを聞いたヘロデは不安に陥りました。そしてマタイの福音書を見ますと、この不安はライバルが登場して躍起になっている王だけではなくて、2章3節を見ますと「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」ここは注目させられます。
 権力者ヘロデは本能的に胸騒ぎがした、ということは私たちにも想像がつくのでありますが、エルサレムの人々の中にも不安がよぎった、というのです。メシアを待望していたはずの、聖書の人々、神の民が不安を持ったというのです。ここには、自らの罪を悔い改め、いつも神様の前に頭を垂れて、神様の赦しと神様の救いをその中から待望する民がずっとそのような歩みをしていたのでありますならば、きっと違った対応があったと思います。
 救い主が与えられる、という、そういう信仰は当時の人々にもありました。でもその救い主はローマをやっつけ、いまの自分たちの政治状況や経済状況を少しでもよい形に変えてくれる、そういう目に見えた力を発揮してくれる、そういうメシアでありました。
 でも、2000年前、そんな兆しはどこにもない、ますます混迷が深まり、闇が濃くなり、政治状況は悪くなり、それに比例して生活も苦しくなる。どこにそんな兆しがあるのか。へりくだって神様の小さいところから始めて着実にその計画が進展する。神様のそういう計画を待望していたとはいえないのです。
 ヨセフははじめ苦悩し、しかしその中からイエス様を信じて神様の計画を信じて、その苦悩を乗り切ることができました。マリアを受け入れて、実際、幼子イエス様が自分たちの家族の中に与えられたのです。この幼子は、幼子ですから、すぐに救いの技や、目に見える奇跡をなしてくれたり、ありがたい頼りになる言葉を語ってくださる、そういうメシアではありません。逆に、無力なメシアをどうして守っていくか、受け入れていくか、その生活を重ねていくことによって、神様の救いに預かっていくという役割を、この夫婦は託されていたのです。
 苦悩を乗り切ったばかりでありますが、さらにこのヨセフたちにはよそうもしなかった闇が襲ってまいります。それは幼子イエスの命が狙われるということです。これは、マリア、ヨセフに取りましては、やっと乗り越えた、これから幼子を大事に育み育てることによって神様の救いを味わい知っていく、そういう意味で苦悩は脱出し、しかしある意味では希望を持っていた。
 しかし、そのままその希望をふくらますわけには行かなかったのです。クリスマスの出来事によって私たちの中に与えられた「神様がいっしょにいてくださる」というこの真理は、手放しで神様はいいことしてくれる、神様はすぐ形に表れた幸せをもたらしてくださる。私たちにとっても、そのようにはならないのではないか、と思うのです。
 主は、私が与える水は命の水だ。普通の水とは違う。それだけではなくて、私が与える水に預かる人は、その人のうちから命の水があふれ出る、あなた方自身が泉に化せられる。そういう御言葉をくださいました。
 しかし主は別なところで、私に従ってきなさい。私の軛(くびき)は軽い、と招いてくださいました。これも主の言葉です。また、別なところでは私の十字架を負う者、またそのことを通して、私に従って来たいと思う者は、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい。
 しばしば申し上げていることでありますが、手ぶらでイエス様の後にいそいそとついていく。そういうイメージで語り尽くすことのできない信仰の真理があるのです。神様の救いに預かる、共にいてくださる神様と神様の歴史をともに生きるということは、ヨセフには新たな重荷として、危機として、イエス様の命が狙われるという出来事が臨みました。まったく同じでないにしても、イエス様が共にいてくださるということは万々歳、すべてが幸せではありません。そうではなくて、場合によってはなお予想もしなかった危険、苦悩、自分が描いていた人生設計を大幅に変更しなければならないことが起こるのです。こんなことなら、神様が共にいてくださるなんてことは、受けとめたり信じなければよかったと思うことがあるかもしれないのです。
 しかしヨセフは、このクリスマスの出来事、それに続く出来事をみますと、淡々とこの現実を受け入れて、御言葉の導きをいただいて、ヨセフはこの促しにそって、大事に幼子イエスを守っている。救い主からなにか救いの出来事をなしてもらうのではなくて、救い主をしっかりと受けとめて守っていく。そして、救い主がいてくださるというそういう生活を自分の生活の中に展開していく。
 ヨセフは、主の導きを受けたゆえにあのように行動することができたと思います。ヨセフの決断の力と考えるべきではない。クリスマスの導きの中に、ヨセフをこのように服従せしめ、黙々とマリアや幼子イエス様を伴って、エジプトに向かうその姿が私たちにも想像できるのであります。
 マタイの福音書の中には、クリスマスの喜びが湧きあがるような賛美の歌声が見出せない、と前回も申しました。でもそれは間違いです。1ヶ所だけはっきりと出てきているところがあります。それは占星術の博士たちが不思議な導きにそってベツレヘムの家畜小屋を訪れて、そしてイエス様に出会ったときです。9節「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
 マリアもヨセフも、これも想像もできなかった。ユダヤの民ではない、不安に襲われている王様、不安に襲われている神の民、それを余所にして神の民ではない異邦人、神様のことなんか、聖書の神様のことなんか知らない人々、そういう世界から神様の不思議な御計画によって遣わされてやってきた、この学者たちが神の民に先立って、最大級の賛美をここに表明しているのです。
 ここにはやはり神様の大きな救いの計画、イスラエルの民を通して、イスラエルの民だけが救われるのではなくして、イスラエルの民が選ばれたのは、神様の救いの計画が全世界にゆきわたる、その役割のため、そのことがここに示されているのです。
 そしてヨセフには、先ほども申しましたように、苦悩や、また新たな試練が臨んでいるのでありますが、ヨセフたちに取りまして、この学者たちが訪れて高々な賛美を歌った。このことは大きな励ましになったことでありましょう。そして、苦悩に続く苦悩と言いうるような、ヨセフやマリアのクリスマスの出来事の中でありますが、この賛美がしっかりと、苦悩や不安が覆っているのではなくて、学者たちがあげた喜びの賛美、この声がヨセフにも届き、ヨセフをも支配している、マリアをも支配している。その賛美に支えられ促されて、新たな試練に立ち向かう力を備えられ与えられている、そのように見ることができるのであります。
 クリスマスの喜びは、苦悩や艱難試練を貫いて、そこに神様が新しい賛美の声を歌うことができるように導いてくださっている。そしてそれは自分たちの小さい幸せ、小さい恵みではなくて、神様の救いの大きな計画が、この地上全体を覆う希望と光として、そこにどんなに暗闇や苦悩や対立が渦巻いていても、それらに負けてしまうことがなくて、それらに打ち勝つ喜びと賛美が響き渡る。
 ルカ福音書は、そのことが先取りされて天の軍勢たちの高らかな天上での賛美と地上に平和が訪れているということが、先取りされているのです。そしてそれは幼子主イエスを守り、身に降りかかる様々な苦悩を忍耐しながら担いつつ、賛美が響き渡っていることを信じて、歩む、そのような私たち一人一人に同じようにこの年のクリスマスの喜びが注がれているのです。
 マリアとヨセフがエジプトに旅立っていくその姿を私たちもそれぞれの歩みに重ねて、クリスマス以後の歩みを力強く歩みたいと思います。