礼拝説教 2007年12月9日

2007年12月9日 「主は約束を覚えていて下さった」
エレミヤ書 30:18~22
ルカによる福音書 1:67~80
古屋 治雄 牧師
クリスマスの喜びが、たしかに私たちに近づいてきております。私たちは喜びと弾むような思いを持って、今年のクリスマスを迎えることができます。主が確かに来たりたもうからであります。
教会の外でも、クリスマスが心待ちにされております。クリスマスというこの言葉をとくに今月に入ってから一言も聞かないという人は、小さい子どもにしても、またお年寄りにしても数少ないのではないか。いろいろな折にクリスマスという言葉が語られ、聞かれていると思います。
一番初めのクリスマスの出来事は意外な出来事でありました。おそらくそのことを先に気づいていて知っていて、心待ちにするという人は、直前まで一人もいなかった。そのように言いうるかと思います。
クリスマスはいつからその兆しがあったのでありましょうか?聖書をみますと、マタイの福音書は、一番初めにクリスマスの様子が伝えられていますが、系図から始まっています。イスラエルの人々の古い系図が、いちばんはじめに私たちに伝えられていて、それにつづいてヨセフの出来事が伝えられています。ですから、直接クリスマスの出来事が始まるのは、マリアとヨセフが不思議な導きをいただいたからでありますが、しかしそれは突拍子もない急な出来事では実はなくて、系図を示して、神の民、契約の民にずうっと昔から神様が働いてくださって、その確かな流れの中にヨセフが呼び出されている、ということが伝えられているのです。
ルカの福音書は少し違っております。クリスマスの出来事は、ザカリアとエリサベトというユダヤの民の一員でありますが、老夫婦の物語から始まっています。ザカリアとエリサベト、聖書を通して私たちは、この二人の名前を知っているのでありますが、当時の人々からすると、やはり平凡な老夫婦といって良いと思います。
ザカリアは祭司で、このときに当番にあたって祭司の務めを果たそうとしておりました。これはいつもの毎年毎年の伝統にそって、とくにこのとき大きな出来事があったというのではない。ザカリアに不思議な身使いの声が及ぶまでは。
ところが今日は、先ほど1章の67節以下のザカリアの預言。マリアの賛歌と並んで、たいへん有名な誉め歌として高らかに歌われ憶えられているのでありますが、この歌はとても他の人には歌うことのできないような力強い歌です。心から御名が賛美され、いままでこれほどまでに自分たちがユダヤの民の一員であった、ということを感謝と喜びを持って受けとめることができなかった。その喜びがここに爆発をしている、というと少し大げさかもしれませんが、いやそれほどに、あの歳を取ったザカリアが喜びの声をあげているのです。
この喜びの歌を歌う前に、ザカリアはどういう人であったか。ルカ福音書は、もう少し二人の様子を伝えております。
1章の5節以下のところになりますが、先ほど申しました祭司でありました。当番にあたって祭司の務めをしようとしているのでありますが、1章6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」 普通の人と申しましたが、少しこれは修正する必要があるかもしれません。とても正しい人だった。イスラエルの人々の中でも模範的な歩みをしていた。
ところが続く7節をみると、妻でありますがエリサベトは不妊の女だったので、彼らには子どもがなく、二人ともすでに歳を取っていた。ここに老夫婦ザカリアとエリサベトの日常の様子が現れている、垣間見ることができるのです。
私たちの通常の予想からすると、神様の前に正しい人だった、非のうちどころがなかった、そんなにいわれる人ならば、きっと神様が大きな祝福と目に見える形で恵みをいっぱい与えてくださっているに違いない、と、そのように連想するかもしれません。
ところがそうでないのです。神様の民の一員としてまじめに生き、人々もそのことをよく認めるほどに立派な歩みをしている。しかし実際の生活では毎日毎日の生活の中で喜びが満ち溢れ、その生活の中で賛美が歌われる。そういう生活ではない、たいへん短い記述でありますが、毎日毎日踊るような、心から神様今日の一日をありがとうございます、沸きい出るような賛美がこの老夫婦から上がっていたかというと、そうでないのです。
そしてこれは、この老夫婦二人だけのことではなくて、当時のユダヤの民全体のことを表しているといって良いのではないでしょうか。
神の民ではある、約束を受けた民ではある。しかし毎日毎日の生活の中で、踊るような喜び、充実感、心からの神様への賛美、祈り。祈りがなされていないのではない、礼拝がなされていないのではない。しかし、本当のところで神様の救いを実感し、喜ぶ、そういう生活が当時のイスラエルの人々はみなでき得ていなかった。
そのような中に神様の特別な働きが臨むのです。クリスマスの出来事は、多くの人々の予想に反して、意外な人々を巻きこんでいく。みんながきっとこういうところに神様の恵みがまず初めに及ぶだろうと、神様の救いの出来事が起こるならば、きっとこういう形で起こるに違いないとどこかで予想していたかもしれない。でも、そういうことは、ことごとく、聖書のクリスマスの出来事をみますと、ことごとく覆されています。意外なところから、予想だにしないところから、救い主が私たちに与えられる出来事が始まる、始まっているのです。
ザカリアは、その名前の意味でありますが、ザカリアという言葉は、主は覚えていてくださった、と名前の意味はそういう意味だとみることができます。何を覚えていてくださったのか。先ほどのザカリアの誉め歌のところをみますと、これは72節でありますが「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」このところに直接、覚えていてくださったということが出てきます。神の民が選ばれるということは、この民を通して世界全体が神様の祝福に導き入れられる、そのためにまずイスラエルの人々が選ばれている、これが正しい理解であります。しかしその選びの受け止め方が、狭くなって、特権意識は持っているけれども、神様の恵みに預かっている実感を正しい意味で持ち得ていたかというとそうではない。そのようなところが、ザカリアに新しい出来事として起こって、心からの賛美、主が先祖を憶え、憐れんでくださって、聖なる契約を憶えていてくださる。この喜びはイスラエルの民だけに留まっていないのです。
ザカリアの身に起こったことは大変不思議なことでありました。老夫婦でありますが、子どもが与えられるという天使の預言でありました。天使が直接いちばん初めに現れたときには「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」 家庭集会のクリスマスの集いでも、このあたりを御一緒にみたのでありますが、恐らくザカリアはこの天使の言葉は意外だったと思います。
若いときは、神様、どうか私たちに家族を与えてください、そういう祈りを祈りつづけてきたと思います。ザカリアは何歳であったか、エリサベトは何歳であったか、伝えられておりませんが、でもこの天使が現れたときに、神様、子どもが与えられますように、ということは、きっともう祈っていなかったと思います。祈ったことも忘れていたのではないか。
でも天使は「あなたの願いは聞き入れられた。」 エリサベトに子どもが与えられる。それほどまでにイスラエルの民は神様が救い主をお送りくださって、本当の喜び、本当の栄光を与えてくださる、ということを祈っていたこともさえ忘れるほどに遠のいている姿が、ここに示されている、ということができるかと思います。
2000年前はこの時代はユダヤの人々はローマの圧制にあえいでいました。救い主どころではない。ダビデ・ソロモン時代の栄華を再び味わうことなどとんでもない。時にそういう圧迫に対して、力で刃向かう運動も起こりました。一時的に力を回復することもできた時代も少し前にはありました。しかしすぐにそれはもっと大きな力で、もっと強い力で、ローマの力で押さえつけられて、重税を課せられ、人々の生活はいっそう不安に陥っていたのであります。そのようなところに、神様は介入してくださって、予想もしなかった人々も巻き込んでくださって、そのことが自分たちの生活の中に新しいことが起こる。老夫婦に新しい子どもが与えられて、その子が、これはヨハネのことでありますが、救い主の道ぞなえをするものとして立てられる、というのです。
ザカリアの喜びは、よくよくみますと、子どもが与えられなかった、あきらめていたのに、どういうわけか、神様が大きなプレゼントとして、自分たちに子供を与えてくださった。そのことは確かに大きな喜びでありますけれども、そのことで終始していないのです。あきらめていた子どもが与えられて、こんなにうれしいことはない、といって、そして喜びの歌を歌ったのではないのです。
この自分たちの家庭に与えられた喜びは、ヨハネの存在、のちにバプテスマのヨハネの働きがそのことを表していくのでありますが、救い主が私たちの世界に来てくださるというその歴史に、私たちのそれぞれの生活が結びついている。だから、ザカリアの喜びは自分たち家族のことだけで完結しているのではなくて、大きな喜びになっている。
ザカリアの誉め歌はとてもスケールの大きい、個人的なことはほとんど出てきていない、イスラエルの民、神様の大きな契約・救い、イスラエルの民を越えて世界に約束されている、そういう契約が前進しているということを歌っているのです。
私たちは弱い者で、広い視野を持ちなさいといっても、なかなか持ちえない者であり、また一方に、身近なところを大事にする。自分の生活や家族の生活を大事にしていく。そのこと抜きに神様の救いの歴史に預かるということはないといっても良いでしょう。
でも、自分一人の生活や自分の家族だけの生活ではない。足元の生活をしっかり見つめることによって、そこにクリスマスの出来事は新しい出来事を起こしてくださっている。2007年のクリスマス、私たちもよくよく身の回りを見ますときに、きっといずれかの形で、神様が救いの出来事を新たに起こしてくださる兆しが、私たちの生活の中にはあるはずです。
クリスマスの出来事はステージや劇の上で向こうで行われていることを、こっちで眺める、そしてそれが済んだら、またもとの生活。クリスマスの出来事は、そういう出来事ではないのです。私たちを巻き込むんです。
そして私たちの喜びに満ち溢れているとはいえない楽しいことばかりとはいえない、つらいことや、どうしていいかわからないこと、よくよく思いを寄せると本当にどうしたらよいかわからない、そのような只中に主が来たりたもうて、主の御力によって私たちの閉塞状況が変えられる。
ザカリアはそういう経験を自分の生活の只中からすることができました。そしてそこから、大きな喜びの声がこのように上げられているのです。ザカリアの誉め歌の言葉をていねいにみますときに、2つのことに気づかされます。それは神様の救いの出来事は、ちっちゃな片隅で忘れ去られるような、気づく人がいないような、そういう出来事ではない、ということです。
イスラエルの民に大きな喜びが臨むということが語られておりますけれども、ザカリアがこう歌っています。「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」これはマリアの歌もこのような傾向が読み取れるのでありますが、神様の御支配によって、新しい御支配によって、地上に実現されるべき神様の正しさ、本当の平和。私たちはもうあきらめきって、もう実現不可能なユートピアのような形でそういうことを思うことがあるかもしれません。
しかし、この地上に神様の本当の正しさが実現する。そういうことを私たちはあきらめているのではないでしょうか。でもザカリアは、クリスマスの出来事に巻き込まれることによって、神様の正義が樹立されるということをこの言葉によって語っているのです。
もうひとつ、私たちがどうしても神様に反してしまう性質が神様によって赦される。罪が赦される。「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」 77節「主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。」一方において、神様の正しさが確実に樹立される、そういう神様のお働きがある。そしてそのことは私たち一人一人の神様に反するそういう性質が、神様によって告発され糾弾され断罪されてもよいのでありますが、そうではなくして、そのことが支えられ、赦されることによって神様の正しさが、そこに作り上げられていくということが起こるというのです。
これは、今朝はザカリアをみておりますけれども、マリアにいたしましても、それからヨセフにいたしましても、また羊飼いたちにいたしましても、共通してクリスマスの本当の喜びの意味として、そのことを知らされたとみてよいと思います。
私たちは、ザカリア、という、主が覚えていてくださった、というこの言葉を今朝あらたに示され、私たち一人一人の中にも神様のこの約束が生きています。もともと神様の約束なんて思いを持たなかったかもしれない。でも私たちが気づく前から、神様は私たちを救ってくださる。その約束、決意を表明して、その表明によってそもそも世界の歴史は始められました。
イスラエルの人々は背き、神の民の栄光を汚しても、神様から赦され、回復され、国を滅ぼしても、また神の民の歴史を与えられ、イエス様の誕生のこのときにまで実は至っているのです。
そしてその歴史は、いま私たちに新たにされようとしています。神様が私たちを絶対に救ってくださる、滅びの道に沈み込まないように私たちを救い出してくださる、この契約が私たち一人一人のために発揮され、その中に私たちはすでに巻き込まれ、この主の働きをこの年も受けていることを共々に覚えたいと思います。