礼拝説教 2007年2月11日

2007年2月11日 「この病気は死で終わらない」
コヘレトの言葉 2:15~17  ヨハネによる福音書 11:1~16
古屋 治雄牧師
 今朝からヨハネの福音書第11章に入ります。11章は大変長い箇所で、マリア、マルタ、ラザロの兄弟たちの名前が出てきます。そしてこの話は12章まで続きます。
 さてこの11章は、やはり癒しの出来事、いいえ癒しよりもっと重大なことが起こっています。イエス様が特にラザロに働いてくださった出来事が伝えられています。イエス様は10章で、大事な働きをなして下さったのですが、そのことによりご自身が窮地に陥ります。39節「そこでユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。」そして、このヨルダン側の向こう側、ヨルダン川の東側に逃れて行かれました。
 このイエス様の所に助けをいただきたいと、マリア、マルタが遣いを出しました。そのことから今日の長い話が始まっています。11章5節に「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とありますので、イエス様はベタニア村にいるこの兄弟のことを、今日の出来事の前から知っておられたのではないかと想像されます。
 「ある病人がいた。」こういう書き出しで11章は始まっています。そしてマリア、マルタが、兄弟ラザロのことを案じているのです。それは軽い病気ではなく、大変重い病気で、命に関わる病気だということがすぐわかります。
 また続きをみると、ベタニアの村でこの兄弟3人の生活は決して孤立していません。兄弟3人だけでていますので、両親がどうしているのか気にはなるのですが、近所の人たち、友人もこの兄弟のことをよく知っていました。
 イエス様は、「主よ、あなたの愛しておられる者(ラザロ)が病気なのです」この言葉をお聞きになりました。軽い病気でわざわざこんな遠方まで助けを求め使者を通して訴えることはないでしょう。イエス様も事情はすぐ察知されたことと思います。しかし、イエス様はこの知らせを聞き「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われました。
 私たちならば、こういう時どう対応するでしょうか。どういう状態なのか?どのくらい具合が悪いのか?今、身近には誰がいるのか?医者は来たのか?すぐその病気の状況が気になりますし、きっとそういうやりとりをするでしょう。しかしイエス様は「この病気は死で終わるものではない。」と、大変不思議な言葉でお答えになりました。さらに6節を見ますと「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」これも私たちの考えや常識からすると納得できません。
 例えば他の場面、ヨハネの福音書5章に38年間病に苦しんでいた人の癒しの出来事があります。ここではイエス様はこの人を安息日でしたが癒されました。当時の律法でも、家畜が井戸に落ちたら助けてよいなど、安息日でも緊急事態なら許されていることがありました。人の場合もそうでしょう。しかし、イエス様は38年間病気で苦しんでいた、その人を安息日に癒されました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と、あたかも一刻の猶予もできない事態と受け止め、イエス様はこの病気の人に接し、安息日でしたが癒しの力をあますところなく現して下さったのです。
 しかし今日の出来事はどうでしょうか?その様子から急を要すことはわかっていたでしょう。それにも関わらずイエス様は、なお2日間動かれませんでした。そして14節では、はっきりと「ラザロは死んだのだ。」イエス様はそのようにお語りになりました。
 今日のこの出来事は癒しの出来事の域を超えています。少なくともイエス様は病を癒すということより、もっと根源的なところをみておられる。どこをみておられるのでしょか。イエス様はこの知らせを聞いたとき、この事態をどう受け止められておられたのか。そしてこれから何に対してご自分のお働きをはっきされようとしておられるのか。イエス様はそのような中で4節、「この病気は死で終わるものではない。」と言われました。「死」という言葉を聞いた人たちはおそらくドキッとしたでしょう。イエス様はここではっきり、「死」という言葉を語っておられます。
 何か窮地に陥った時、私たちは「私はもう終わりだ」と言ったり、思ったりすることがあります。
 ある人が、仕事人間として第一線でバリバリやってきた。自分の実力を磨き、仕事に生かし、時にはライバルとの競争も自覚しそのような中で一生懸命やってきた。そして自他共に認める実績を積んだ。その人がある定期検診で致命的な病に冒されているということを聞かされ、突きつけられる。この人は「俺はこれで終わりだ」そういう言葉をもらすのです。「俺はもうこれで終わりだ。」これは病そのもの、命そのものの事も視野に入っているでしょう。しかし「俺はもうこれで終わりだ」という、この言葉はもっといろいろなことを含んでいると思います。自分が積み上げてきた実績。いろいろな人とのつながり、またそのようなことだけでなくもっと深いところまで、仕事だけではなく、そもそも命が与えられ生きてきたこと、生かされてきたこと、そういうことにも思いが及んだことでしょう。
 この「死」ということを少し幅広くとらえる時、人は色々な角度から死ということをみるでしょう。一つ目は病気そのものにより苦痛をおいながら命絶えていくことへの不安。苦痛をおいながら死と直面しなければならない。抽象的なことではない自分自身の重き病。二つ目は、死がもたらす親しい人との別れ。別離を経験しなければならない。親しい家族とも別れなければならない。その恐怖と不安。三つ目に、社会的な死、断絶、どんなに実績を積んできてもその実績が途絶えてしまう。いろいろな専門分野でがんばってきている人は一般的傾向として、自分が病に陥っているということを表明したら社会的役割を失ってしまうためにひたすらそれを隠す。ドラマなどでも私たちはそういう場面を見ることがあります。これは特別な人だけではなく、私たちは社会的に葬られてしまうということへの不安を持つのです。これらに加えてもう一つ、そもそも自分の人生に、死ななければならない自分の人生全体にどういう意味があるのだろうか。「死」によって私たちはそういうことと直面させられるのです。
 さて11章で具体的にラザロが死に瀕するような病気に倒れ、マリアとマルタが悲痛な思いでイエス様に助けを求め使者を送った様子を伝えています。ここにはこの家族の交わり、またベタニアの村で兄弟たちを見守っている人たちとの交わりがあります。
 私たちの身近でも自分自身が病に冒されている、また家族に病んでいる人をかかえている人もいるでしょう。病が癒されるように願い、死を私たちは脳裏に描きながら、その苦しみを共に担わなければならないこともあります。あまりにも辛いゆえ忘れようとしたり、避けて通ろうとしたり、先延ばしにしたり、考えないように自分自身を麻痺させようとしたり、いろいろなことを私たちはするのです。
 主イエスは今日の出来事の中で、病んでいる本人よりも、この周囲にいる人々に対してもっぱら働きかけておられます。「死」ということをいろいろな側面から突きつけられ、どうしていいかわからない。そのようなただ中で、死に瀕している人を取り巻いている人々に「この病気は死で終わるものではない」主イエスは、そうはっきり語っておられるのです。
 「死んだらそれっきりだ」また「万策尽きてもう終わりだ」としか思えないこと、また私たちの方からその事態に働きかけて引き戻したり、変えたりすることがもはやできないというのが「死」の現実です。どうにもならないことの代表が、実際命を失う「死」そのものの出来事でありましょう。
 信仰生活を送っている私たちも時として「死んだらそれっきりではないか、終わりではないか」という思いがよぎります。
 この出来事の中でイエス様はあえて2日間動かれませんでした。ずっと動かれなかったわけではなく、7節で「もう一度、ユダヤに行こう。」とおっしゃり、ラザロの所へ行かれました。しかしイエス様が到着した時にはラザロは死んでいました。マリアとマルタは、この後、どうしてもっと早く来て下さらなかったのですか、とイエス様にすがりついています。「このような事態になる前に来てほしかった。そうしたらこんな事態にはならなかっただろう。」と。
 しかしイエス様は「死」ということを視野の中に入れ、私たちにはできない、人間にはできない「死」そのものに働きかけておられるのです。死ぬ前だったら何かできるかもしれない。しかしもう死んでしまった。そのような事態の中に、手遅れではなく、なお働きかけることができる。今までに、そのような働きかけをした人がいるでしょうか。また、そういうことを説く教えがあったでありましょうか。いやむしろ死すべきことを悟るように、死を受け入れるように。そういうことはいろいろなところで言われてきました。しかし、今朝の主イエスの言葉は「この病気は死で終わるものではない。」「死」そのものの中に、イエス様はなお働きかける力をもっておられる。これは、私たちの常識を越えています。
 イエス様は弟子たちに11節、「ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と、言われました。弟子たちは、この言葉を聞き、眠っているならあわてて行くことはない。助かるでしょうと思ったのです。しかしイエス様ははっきりと、ラザロは眠っているのではなく、ラザロは死んだことを、念をおして語っておられます。そしてイエス様は死者となったラザロの所に行き、この「死」の出来事に働いて下さるのです。
 死の現実の中に、なおイエス様は歩み入って下さり、神の御子として働いて下さるのです。今朝、私たちはそのことをはっきりと心に刻み覚えたいと思います。そして4節で、その死への働きは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と、イエス様はおっしゃっておられます。
 弟子たちは、イエス様がユダヤの地に戻るということは、また危険にあうであろうということを知っていました。しかし弟子たちは、イエス様がこれからユダヤに戻り、エルサレムに戻って何を為そうとしておられるか、その一番深いところまで理解することはできなかったでしょう。イエス様は、弟子たちの想像をはるかに超え、もはや手出しができない「死」の中に、なお働きかけをしてくださるために、エルサレムに戻っていかれました。「この病気は死で終わるものではない。」このように宣言されたイエス様ご自身が、「死」を担われる。そのことによって、「死で終わらない」という、この宣言が本当の意味を持つのです。
 ヨハネによる福音書の十字架の出来事の特色として、イエス様の十字架上での言葉が挙げられます。イエス様が息を引き取る直前のお言葉は、「成し遂げられた」という言葉でした。口語訳聖書ですと「すべてが終わった」です。「成し遂げられた」とは、何が「成し遂げられた」のか。イエス様は神様の御子として私たちの所に降って下さった。私たちからは一切手出しのできないその「死」の中に命の力を注いで下さったのです。イエス様の十字架によってそのことが成し遂げられました。
 私たちには「死」に向かって、はっきりとそれを見据え、分析し、適切な対応をとるということはできません。しかし病気の死、家族の重い病、それに留まらずさまざまな所で、私たちには手出しのできないことがある。それを悟らないと私たちは生きて行かれない。そのような現実が私たちの周囲にはなんとたくさんあることでしょう。
 主イエス・キリストはご自身の十字架と復活を通して、私たちからは手出しができない、諦めざるをえない、引き下がらざるをえない、そのような現実の中にイエス・キリストの十字架の死がある。そしてそこに、その死を克服してくださる神様の新しい命の力が注がれているのです。しかもそれは主ご自身によって「成し遂げられた」と高らかに宣言されるほど、確かなこととして私たちに与えられているのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光が現れる。」この、主の言葉を私たちも心から「アーメン」と言って受け入れる者となりたいと思います。