礼拝説教 2008年1月13日

2008年1月13日 「復活の主を愛する」
出エジプト記 19:1~8
ヨハネによる福音書 21:15~19
古屋 治雄 牧師
 私たちは、この新年の歩みを、聖書によって、復活の主の力づけと希望と光の中に迎えることができ、そのような意味で私たちはたいへん幸いな新年の歩みを備えられていると思います。
 クリスマスの出来事が、だんだん私たちの頭の中から遠のいてきているかもしれませんが、クリスマスの一連の出来事の中に、十字架の影、イエス様がお生まれになって喜びに包まれているのですけれども、しかし、クリスマスの出来事の中に十字架の影がおよんでいる、そういうクリスマスの聖書の箇所を挙げることができるかと思います。
 それと並んで、クリスマスの出来事の中に復活の栄光というものをクリスマスの中に先んじて見ることができるか、こういう問いを立ててみると、神様の栄光があきらかにされている点でも共通性があります。
 天使たちがクリスマスの出来事の中で高らかに主を賛美し、天が歌い、地がどよめき、そこに大きな主の栄光が現されて、讚美が歌われているという場面があります。復活、その栄光と喜び、復活という言葉は直接はでてきませんけれども、クリスマスの出来事の中の栄光の輝きというものが、主の復活の希望や輝きと結びつきを持っていると見ることは、間違いではないと思われるのです。
 新約聖書のいちばん初めの福音書はいずれも、いちばん古いマルコの福音書においても、カッコ付ではありますけれども、主イエス・キリストが十字架の出来事の後に甦ってくださったことを伝えています。
 ですから、いちばん最後の主の復活の出来事の中に私たちも招かれ、その喜びを私たちが受け止めそこねているならば、せっかく福音書をずっと読み進んできて、大事な大事な主の復活の喜びに私たちがもしも支配されていないとするならば、そのことはいちばん大事なことが欠けてしまっているとそのように申せるかと思います。
 使徒パウロはイエス様の十字架をたいへん強調しました。十字架につけられたキリスト以外は宣べ伝えていないとさえいいました。また第一コリントなどを見ますと、十字架のキリスト以外は自分は知ることはすまい、とさえ主の十字架を強調しています。
 しかしパウロは十字架をこのように強調していますけれども、それはそののちにイエス様が甦ってくださったということを通して、十字架の本当の意味が私たちに明らかにされていると、そのようなつながりの中で十字架を強調しているのです。
 弟子たちは十字架の出来事の中で混乱をし、イエス様にせっかくついてきたのでありますけれども、でも、イエス様の十字架の出来事を受け止めることができなくて大失敗をしてしまいました。そして、自分たちの力でそのような立場をもう一度主と共なる大事な働きを自分たちの力で回復することはできませんでした。自分たちの力ではなくて、復活のイエス様が大失敗をしてしまったこの弟子たちの中に現されてくださって、そしてその関係を弟子たちはイエス様の光の中で取り戻すことができました。
 イエス様の復活の光に照らし出されて、不安が克服されて「平安あれ」といわれた主の言葉の中に、自分たちがどんなに平安につつまれているか、ということを知らされたのです。
 そしてその中で、主が十字架に向かって下さった本当の意味を、もう一度本当の意味で知ることができた。これが弟子たちの姿であります。
 そして、主はそのような中でヨハネの福音書をみますと、主の復活の出来事のいくつかの出来事がありますが、聖霊を受けなさい、主がその御霊の息吹を吹きかけてくださって、新しい使命に遣わして下さった。
 先週は新年の初めの礼拝の中で、その20章の箇所を共にみた次第であります。十字架の主、字架に主がつけられているいろいろなモニュメントや絵があるかと思いますが、2種類あります。カトリック教会に行きますと、十字架に主がつけられておりますような十字架がありますけれども、ここにおいても、2種類の十字架があります。
 ひとつは十字架上で苦しみもだえ、そして息絶えておられる主、もうひとつはこの主ではなくて、イエス様ではなくて、手を広げて顔を上に上げている主が十字架にいっしょに一体となって描かれて、あるいは実際それが像になっている。最近は十字架上でもだえ苦しんでおられる主というのではなくして、顔を上げて主が手を広げられておられる、そういう十字架像の方が私、多いように思われます。
 次週は、カトリックとプロテスタントの一致の礼拝が大名カトリック教会でありまして、私はその役割を担っているのでありますが、カトリック、プロテスタント問わず一方において十字架上での主の苦しみを忘れることはできませんが、しかし、もう一方において十字架上の苦しみを、主は身に負われ、その苦しみをもってして私たち一人一人に復活の喜び、罪のあがないの喜びと希望を私たちに確かに与えてくださったことを忘れてはなりません。単に教えとして私たちに伝えられているだけではなくて、初めのあの弟子たちはその喜びの中に包まれて新しく生きる者とされた事実を知らされているのです。
 今朝のこの出来事は、同じようにひとりの代表的な使徒ペテロに、主の復活の喜びと希望が示されています。他の福音書には伝えられていない復活の希望の出来事として、ヨハネの福音書に伝えられているのです。復活の主はペテロをお選びになって、ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか、と問われました。先程みましたように、この問いを3回繰り返しておられる。3回繰り返しておられる、ということから、十字架の出来事の前でのペテロが自分の固い固い命がけの決心をイエス様に表明したのでありますが、無残にもその固い決心は崩壊し、イエス様をはっきりと裏切ってしまった。
 ちょっとやそっとの思いではなくして、決定的に裏切ってしまった、というのが、この3回の裏切りであります。そのことが結びついていると思われますが、復活の主はこのペテロに臨んで、都合3回、少し言葉が違うところもありますけれども、私を愛しているか、とお尋ねになったのです。
 復活の主はこれは復活の出来事に遭遇した一人一人、パウロも含めてそうでありますが、その弟子たちの失敗をイエス様がもう一度取り上げて、それを糾弾し再確認をする、そのことを主はなさっておられないのです。
 弟子たちは恐らくイエス様からそういうことを指摘されるのではないかという恐れを心の中に、私は持っていたのではないかと思います。でもそういう予想に反して主は一言も、あの時お前はこうだっただろう、こういうことをしただろう、ということはおっしゃっておられない。これは注目すべきことです。
 そうではなくして前のところでは、平安あれ、平和があるように、と、恐れている弟子たちにこの言葉を持って主はは近づいてくださった。
 そして今日のところでは、私を愛しているか、これはあえて申しますならば、いま私を愛しているか、これからいろいろ役割を託すけれども、ずーっとそれは変わらないで続いてこれから愛するか、というのではなくて、いま愛しているか、そのところに強調点があります。
 ペテロの応答のことを先にみたいと思うのですが、ペテロはこの問いに対して、はい主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です。ペテロの答えも、3回目は少し他の言葉も入っておりますが、3回も言われたのでペテロは心を痛めたということが伝えられております。でもペテロの応答もいっしょです。少し回りくどいですね。「はい、主よ、私があまたを愛していることは、あなたがご存知です。」
 あまり勝手な想像をすることは控えなければなりませんが、どうでしょうか、十字架以前のペテロですと、もう一度、自分の決意のほどをどれほど固いかということを直接表明するようなそういう言葉が連想されるのです。でもここではペテロは単刀直入にもう一度自分の固い固い決意を表明するという言い方とは違って、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です、主よ、あなたがご存知です。
 どういう内容がここに込められているか、を考えてみますと、固い決意表明を述べるというよりも、復活の主が私たち一人一人ペテロをしっかりと受け止めて下さって赦して下さって、そして赦されたものとして、新しい使命を託してくださっている。そのことは、復活の主が確かに私に視線を注いでくださっているその意味であると。つまり主の赦しと導きの確かさの中に、この私は間違いなくいると。自分の確かさではなくて、自分の決意の固さではなくて、主が私たちを許し導いてくださっているそのことは、その主は間違いない、という、その確かさの中に自分をペテロは発見している。確かに見ている。これは十字架以前のペテロの自分の決意表明と決定的に違うことだと思います。ペテロは変えられていると、いうことができると思うのです。
 そしてこれも控えなければならないのでありますが、主は、私を愛するか、と言われました。少し連想してみますと、今度は約束をちゃんと守るか、とか、御言葉に忠実にあなたは弟子としてこれから役割を担っていくかとか、そういう言い方とも違うのですね。
 私を愛するか。復活の主は徹底して約束を守るか、とか、そういうことではなくして、人格的なご自分をペテロの前に語っておられる。私を愛するか。これ以上強い人格的な結びつきを表明する言葉はないと言ってもいいでしょう。
 十字架以前にイエス様は弟子たちの足を洗ってくださった出来事以降、緊迫したときが流れているのでありますが、いろいろな最後の教えを弟子たちに述べられました。その中に羊飼いの例えのお話も、ヨハネの福音書をみますと主はされました。
 そして、その中でこれは15章のところでありますが、主はこのように、「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。わたしの愛に止まりなさい。」このように、お語りになりました。
 十字架以前のこのやり取りを、弟子たちは決して忘れていなかったと思います。思い出したことでありましょう。十字架の出来事を通して、ご自身の命をかけて主は弟子たちを愛し通してくださった。そのことが復活の主の現れてくださったことを通して、よくわかった。
 その主が、私を愛するかと、このように問われ、許され愛されている、ということを、単なる信頼関係とか固い絆というのではなくて、ペテロはこの時にしっかりと主イエス・キリストの死を通して愛されているということが解った、了解できたのです。
 そしてその主がなお密接な人格的な繋がりの中で新しい働きへと私たちをも招き、遣わそうとしておられる。そのことを理解したと思われるのです。弟子たちの歩みは赦されたものとしてずっとそこに動かないで止まっているのではなくして、主に愛されたものは主に赦された者は無条件に、その働きの違いはあるでありましょうが、主の愛に応える者として新たな招きを受けているのです。
 そして私たち一人一人も赦された新たな使命に遣わされているその主が、私を愛するか、と親しい声をもって私たちに呼びかけたもうのです。
 年頭にあたり、私たちはこの主の呼びかけを受け、出会いがしらに私たちに命令するごとく、戒めとして命令としてこのように私たちにおっしゃっておられるのではなくして、私たちを赦し、私たちの罪とけがれを贖ってくださった。その主が同じように私たちに平安を呼びかけ、この平安に預かる一人一人は恐れを取り除かれて、主の愛に応える者として私たちは新たなところに立てられているのです。
 さらにもうひとつ言えることは、主はこの時最後に、私を愛するか、という呼びかけを3回繰り返されたその後に、私に従いなさい、と言われました。羊飼いの例えの話に戻りますならば、私たちちは使命を託されて自分が先頭になって開拓者のようになって、いろんなところに遣わされていくのではないのです。
 遣わされていくその道筋には必ず主が先立にいてくださり私たちはその主の後についていく、従っていく、服従していく、これが主の愛にお応えしていく私たちの役割、働きの本質です。そのように知らされますときに、私たちは奢りや高ぶりや、意気込み過ぎることなく、私たちは主によって抜くことができて、主の愛にお応えする働きを本当になすことができる一人一人にされるのです。
 復活の主は聖霊を約束してくださって、弟子たちをお遣わしになりました。今日の出来事も、私の羊を飼いなさい、と主は命じておられます。これは教会の働きをもっぱらさしている、ととることができますが、教会の群れにされている私たち一人一人は小さい者であってもペテロのように私たちたちの働きがつたないものであっても、求められているのです。どんなに小さい私たちであっても、働きの違いはあるにしても、私の羊を飼いなさい、というこのご命令に相当する役割が、小さな役割が私たちにも与えられているはずです。
 主を愛するというこの命令と呼びかけの中に私たちは確かに置かれております。この年の歩みをそのような歩みとしてそれぞれ与えられたところで邁進してまいりたいと思います。