礼拝説教 2008年1月6日

2008年1月6日 「聖霊を受けてこの年を歩む」
イザヤ書 43:16~20
ヨハネによる福音書 20:19~23
古屋 治雄 牧師
 新しい2008年の歩みがわたしたちに与えられ、その中でこの日曜日わたしたち主の教会に集うことができました。それぞれのご家庭でも新しいカレンダーを部屋に掲げて、すでにいろいろな予定を組み入れている人もあるでありましょう。この年頭はふだんはあんまり祈り心を自覚していない人々も初詣に行ったり、新たな決意をしたり、また自分の決意を新たに確認するだけでなくて、わたしたちの努力やこの決断を越えたところからのなにがしからの力をいただきたい、うけたい、そのような思いを持っている人々も多勢年頭にいたと思います。そのような歩み出しの中でわたしたちは、新たな主の日を与えられ、わたしたちもはじめてのこの礼拝を通して神様の新しい導きに身をゆだねて歩みたいと決意するのであります。
 暦が改まる。日や月で申しますとこれは毎年毎年繰り返しております。そのような意味では元旦も繰り返し繰り返しやってまいります。しかし暦を見ますと、日付は変わりますけれども、年は繰り返されません。2008年、この年は進行しているのであります。暦は自然の運行などが元になって、いろいろ工夫されて今日の暦になっていますが、聖書の人々はその生活の中でやはり暦を持っていました。繰り返される面と、繰り返されない面、その両方を自覚していました。そのような中でとくに一見繰り返されているようで実はほんとは繰り返しではない、そういう暦の意味を大事にしようといたしました。
 旧約聖書のイザヤ書の御言葉を旧約の御言葉として今朝聞きましたけれども、きょうのこの箇所には、イスラエルの人々が出エジプトの恵みに預かったことが、覚えられている。そのことがわたしたちにもわかります。
 聖書の人々は約束の地に入りまして、自然の運行や季節の移り変わり、また、いろんな作物が取れる、そのことを準備したりお祝いをしたりする、そういうお祭りの意味の中に出エジプトの恵みを覚えるという新しい意味付けをいたしました。これは繰り返されることではないのです。
 一見繰り返されているようで実は神様の救いの歴史においては、春夏秋冬、春夏秋冬、その繰り返しではなくて、聖書の神様はわたしたちに繰り返されることのない、どこにいくかわからないのでもない、神様の救いを着実に進めておられ、そのことを暦を通して新たに覚えると、そのことと闘ってきたのです。
 うっかりすると、これはぐるぐる回りの危険性におちいることがあります。そのような中で聖書の人々は神様が繰り返されることのない新しい力をわたしたちの生活の中に注いでいてくださる。そのことを覚えようとしたのであります。
 わたしたちは新しい年を迎えるこの只中で、きょうは1月の6日でありますが、教会の伝統ではきょうの教会の暦では公現日といいます。栄光祭とも書いてあります。これは、イエス様の誕生を知らされたあの東方の博士たちがイエス様にまみえた日とされ、今日の1月6日がその日です。クリスマスの出来事も、繰り返された出来事ではなくて、2000年前に1回だけ起こった歴史的な出来事として、わたしたちに示されています。
 神様がわたしたちに新しいことをなしてくださる、出エジプトにいたしましても、クリスマスの出来事にいたしましても、また今朝はヨハネの福音書を読み進めてまいりまして、20章の復活の出来事のところにわたしたち導かれているのでありますが、神様はどのような形でわたしたちに新しいことをなしてくださるか、それは、時代は違ってもそこに神様の新しいお働きが生まれる。クリスマスの出来事も、よくよく全体を見てみますと、登場人物はいろいろ登場いたしましたが、しかし一番の導き手は神様が見えない形でそこに働いてくださって、ときにそのことは聖霊が注がれて、と聖書で伝えられているところもありますが、神様の力強いお働きがそこに御霊の導きとして注がれて起こっていることに気づかされるのです。
 神様が単なる繰り返しではなくて、その時その時にわたしたちに新しく臨んでいてくださる、それは御霊を注いでいてくださる、という言葉で言い表すことができます。2008年の新たな歩みを与えられているわたしたちにも、神様の御霊が注がれているのです。
 これは何か怪しげな霊の働きではない、歴史を導き、イスラエルの民を導き出エジプトをなさしめ約束の地に導き、イスラエルの民がその罪のゆえに滅びそうになっても、その民を立ち上がらせ、そして人として救い主イエス様をわたしたちに与えてくださった。これは1回限りのわたしたちの歴史の中に起こっている出来事です。
 その歴史の線上に今日のわたしたちの新年の礼拝があるのです。新年に際して、ふだんあまり祈り心を持っていない人も祈り心を持つ。人間の力を超える何かそういうものにすがりたい、そのような思いを持つ。多くの人々が、そのような意味でいろいろな新年の祈願をしたことでありましょう。
 わたしたちはもっとはっきりと、この新しい御霊の導きをいただいて、運命のいたずらや何か天体の運行によって定められたそのようなものではなくして、生ける神様がわたしたちに新しい霊の息吹を注いでくださっているのです。
 イザヤ書の40章以下には、「新しい」という言葉がでてきます。神様の新しい導きが注がれているということが集中して出てきます。神様が新しいことをなしてくださる。しばしばこの新年に、このイザヤ書の40章以下が読まれるのです。そこに神様の力強いお働きと同時に聖書の神様以外の神様のことがでてきます。そして、その典型的な対比として、聖書の神様は生きておられ、神様の息吹をわたしたちにふきかけてくださって、そしてそれがわたしたちの生きる力になる。
 聖書の神様以外の神とされるものはどうか。この息をしない、息をしていない、新しい命を吹き込む、そういう息吹を持ち合わせていない。そういう比較が語られています。これはたいへん興味深いことです。
神様が神様の霊を注いでくださって、わたしたちを新たにしてくださる。とくに聖書から示されますことは、この力は新しい創造の力をわたしたちに発揮してくださる。神様御自身が無から有を生み出す。さきほどの讃美歌にもそのことが歌われておりました。
 人間の力ではどうにもならない、しかし神様は新しい秩序を、神様の恵みの秩序をそこに生み出してくださる。そういう力を持っておられる。神様の御霊の息吹はそういうものなのです。
 もうひとつ、失敗をしてしまって、もはや自分たちの力では修復することができない。イザヤ書40章以下に登場するイスラエルの民の歴史は、まさにそういう中にありました。外国に、国を滅ぼして連れゆかれているのです。臨むべくもない、自分たちからどう新しいことを順序だてて、着手したらよいかという目鼻はまったくつかない、そのような只中に神様が働いてくださって、そして、贖い出してくださる。
 失われたものを神様が代価を払って連れ戻してくださる。失敗して立ち上がれない者を神様が神様の手を持って許し救ってくださる。神様の新しい御霊の力は、そういう力です。
 きょうのこの復活の出来事、やはり御霊が登場いたします。イエス様によって。復活の日のその日の夕方でありますが、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる戸に鍵をかけて、潜んでいます。イエス様の復活の出来事にまだ預かることができない。神様が新しいことを始めておられるのですけれども、自分たちからそのことを迎えることはできない。理解することができない。そして相変わらず怖れに覆われている。
 新しい年が始まったとはいえ、すべてが薔薇色ではありません。新しい年が始まったとはいえ、世の現実、地上の混乱のことを見ようと思えば、いくらでもわたしたちは列挙することができます。そして、クリスマスの恵みや新年の喜びが一時的なそのときだけの気分でお先真っ暗と、そのような思いの中にも、いるかもしれません。
 きょうは6日経ちまして、多くの人々が明日から仕事に就くことでありましょう。新年を迎えたというその喜びが、どれだけ新しい人たちの実際の生活の中に、息づいているでしょうか。それはそれ、正月の祝いは正月の祝い、ということで割りきられていないか。
 聖書の神様の前にわたしたち立たされますときに、新年の望みは決してそのようなものではない。わたしたちを造り変え、わたしたちがしてしまった失敗を赦し、そのところからわたしたちを立ちあがらせてくださる。そしてこの弟子たちに復活の主は、あなたがたに平和があるように、と呼びかけておられます。
 そして、この呼びかけに続いて復活の主は、もう一度、あなた方に平和があるように、と、これまでにしでかしてしまった失敗や罪、それらについてわたしたちが、恐れおののいて、立ちあがることができないのではなくして、そのことの解決を主御自身がなしてくださったのです。
 さきほどの旧約の御言葉にも、昔のことを思い出す必要はない…これはちょっと誤解されるかもしれませんが、イザヤ書43章の御言葉にはそういう御言葉がありました。これはいままでのことに無責任になるという意味ではないのです。いままでのことをなかったごとく水に流すということでもないのです。
 わたしたちがこれまでどういう歩みをしてきたか、どういう現実をわたしたちがその身に引きずっているか、それは確かにわたしたちをその中に引きずり込む。しかし、後ろ向きではなくして、わたしたちはたしかにいろんなものを引きずっています。そしてそれらを直視しなければならない。
 では、どう直視するかというと、後ろ向きではなくて、そのような現実を抱えているわたしたちに神様が新しいことをなしてくださっている。このわたしの現実を神が働きかけてくださっている現実としてみなさい、ということなんです。神様が、そこにどういう力を注いでくださっているかを見落としてはならない。そこに目を向けます時に、どんなに大きな闇があっても、主御自身がそれを平和へと変えてくださるのです。
 そして、今朝の御言葉は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」これは弟子たちへの主の派遣の言葉です。自分の罪との闘い、あるでしょう。それらがけっしてすべて終わったわけではない。なお抱えているのでありますが、わたしたちは主の導きに目を止めますならば、わたしたちは新しく変えられて遣わされるのです。御霊をいただいて。
 では、どういうところに遣わされるか。22節「聖霊を受けなさい。」主御自身が弟子たちにその息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 新しい年、私たちは新たな御霊の導きをいただいて、この新年を歩む者とされています。そしてこの御霊の導きは、創造の力をなしてくださるものであり、失敗したものを立ちあがらせてくださる力であり、さらに、私たちの生活の中に、新しい年の歩みの中に、許されて生きるという、そういう創造的なそのような事実を生み出してくださる力として、私たちに働いているのです。
 聖書は、主の祈りもそうでありますが、私たちが赦されて生きるというところに、私たちの生き方の一番の大事な中心がある、と私たちは教えられています。 
 そしてさらに私たちは主の教会の群れのかけがえのない枝々とされています。このことの意味は大きいのです。クリスマス礼拝を通して、新たに新しい群れも与えられ加えられました。私たちはつたない者であり、弱い者です。でも、きょうここで弟子たちが主から派遣されておりますように、御霊の働きをいただいている者として、和解を生み出すことを私たちも証していく大事な役割を私たちも託されているのです。
 福岡中部教会が主の憐れみをいただいて建てられ、この地で十字架を掲げて教会の働きを表している。そこに私たち自身も許しをいただき、また赦された者として相集い生きている。
 それだけに終わらない、私たち自身も御霊の働きをいただいて、神様に赦された者として生きていく、そのところをしっかりと見つめて生きていくときに、神様が私たち自身の力ではなくて、神様の力を私たちを通して発揮していってくださる。そのことを私たちは恐れてはならない。そのような役割を与えられていることを覚えるべきであります。
 これまでもそうでありましたが、聖書を見ますと、神様が新しいことを始めてくださるのは、必ずそこに生きている人々を、神様は巻き込まれるのです。そこに生きている人をそっちのけにして、みんなが観客になって、神様のお力がひとりでにそこで何か新しいことを産み出す、ということはない。必ずそこに新しい人々を巻き込んでいかれるのです。私たちもそのような一人一人、器とされているのです。その事実はたいへん重い。
 復活の主が弟子たちを派遣してくださったように、私たちも小さな、あるいは、ささやかな遣わされる場を与えられています。どんなに小さい人でも、一人で生活をしている人も、けっして例外ではない。私たち自身がこの力強い御霊の導きに預かる時に、私たちを通して神様が新たな出来事をなしてくださるのです。
 主の教会として建てられております私たちの教会が、また、その枝々とされている私たちが、この年、御霊の導きをいただいて、一歩一歩焦ることなく、おごることなく、私たちを通して主が働かれるのです。そのことを互いに受け止め合い、互いにそのことを知り合う歩みを、この1年共々になして参りたいと思います。